遠い未来の青い病 【オトナのコンビニ メダマ屋】――如何わしさ満点の店の前で、フルカワは小さく震えていた。 握り締めているのは、親からもらったお年玉の大半、二万円。  額に脂汗を掻き、顔は自然と俯き加減になっている。フルカワは、この金の使い道を定めていた。 しかしそれでも尚迷う。 "ムダなんじゃないか" "せっかくお父さんがくれたお年玉を――" "――こんなことに、使うのは……"  しかし、フルカワには分かっていた。迷ったところで、答えは何も変わらないのだと。  ゴウハラとオオバは、少し離れたところからフルカワを見ていた。 「あれ、フルカワじゃん。あいつもエロい店とか興味あんだなー。学校でもしゃべったことねぇし、 分かんねぇけど意外だなー。てか、早く入りゃいいのに。あんな突っ立ってて、知ってるヤツに 見られたら恥じゃん。なあ?」  ゴウハラはオオバに同意を求めた。オオバはその問いには応えなかった。そして何か考えている ような表情で、こう呟いた。 「…モルフェルトか?」 「なに?」  メダマ屋にはヒット商品があった。その名を【青い春】という。  レジの前に陳列されているそれは、残り10セットを切っていた。棚には【売り切れ寸前!】と 貼られており、フルカワの心の焦りを加速させた。  フルカワはおずおずと商品を手にし、しかし素早くレジに差し出した。店員は無感情で処理した。 「二万円になります」 「は、はい……」  フルカワの差し出した一万円札は、二枚とも手汗でシワシワだった。  メダマ屋から出てきたフルカワを見て、オオバは予想が的中してしまったことを悟った。 「やっぱり……」  フルカワは早速紙袋をビリビリに破いて、【青い春】を取り出した。中身は極めて薄い肌色の フェルトシートであり、裏面は、貼り付けられるように粘着テープで加工されていた。  フルカワの呼吸がどんどん荒くなっていく。それは遠目からでも確認出来るほどだった。 「なあ、あれってもしかして……」 「ああ。あれは、モルフェルトの――」  袖で額の脂を拭き、フルカワは【青い春】を貼った。その途端に、フルカワのニキビ面に柔らかな 笑顔が広がった。 「――粗悪品だ」  オオバの表情が、憐れみのようなもので曇った。 「知ってる、あれ。確かあれだろ、夢見られるヤツ」 「…違う」 「いや、そうだろ? なんか、妄想をホントにあることみたいに体験出来るっつう――」 「だから、違う。そんな生やさしいものじゃない……今から、フルカワにとっての"現実"が巻き起こる んだ。逃れられない、現実が……」  オオバの声は、段々と沈んでいった。  冬であるはずなのに桜が舞っていた。  くすんだ空であるはずなのに青空だった。  隣には理想の女がいた。  そこは、フルカワの"現実"だった。  フルカワより幾分小柄のその女はふと立ち止まった。なんだろうと思いフルカワも立ち止まる。  女は背伸びする。柔らかく目を瞑り、唇を差し出す。フルカワもそこで理解する。  唇が交錯し、舌もまた絡まり合う。タイミング良く暖かな風が吹く。  唇は、舌は、離れない。そのままフルカワは強く女を抱き締める。女もそれに応える。頭を、胸を、 太股を――全て、フルカワに委ねる。  フルカワは、心までも委ねられたような気になって、頭の奥のほうがビリビリと痺れた。  それに心などないというのに。  フルカワは一旦女を引き離し、そして震える手を女の肩に乗せた。そしてもう片方の手は女の胸に 伸びた。しかしなかなか胸まで達しない。  フルカワにすでに冷静さはなかった。身体も心も熱くなっていた。ただあるのは男として極めて 正常な、目の前の理想の女を、全て、余すところなく、味わい尽くしたいという――欲求だけだった。 極度の緊張状態が、時間の流れを遅くしているんだと、フルカワは実感していた。  それでも、距離はもう僅か。あと少しで、誕生以来感じたことのない、きっと柔らかいであろう、 きっと暖かいであろう、きっと心地良いであろう、女の乳房というものに触れることが出来る。  フルカワは、手を握った。  しかし感触はなかった。ただ握っただけだった。  気付けば桜もなかった。  空もなかった。  あるのはただ、真っ暗闇だけだった。  混乱するフルカワに無情な声が響く。 『【青い春】はここで終了でございます。この続きは別売の【青い熱】でお楽しみ下さい――』 『青少年の危機』――十一月五日付けの新聞の一面に載った記事の一部である。 『(前略)【モルフェルト】はまさに人類の夢を具現化した商品といえる。しかしその技術はきちんと 保護されることなく、誤った使用方法による危険性を認識されることもないまま、様々な形で広く世界に 広まっていった。 (中略)【モルフェルト】の粗悪品の中には、使用者にとって魅力のある夢を見させることによって、 偏執病に似た症状を起こさせるなど、使用者の精神に強い悪影響を及ぼすものも多く存在するという。 比較的安価なそれらの商品は、十代〜二十代の若者がメインターゲットとなっている。(後略)』 「…なるほど、ねえ……」  高校の図書館。ゴウハラは納得した顔で新聞を元の位置に戻した。 「あれを使っちまうと、執着しちまうわけだな。現実よりよっぽどマシな"現実"に……」 「そう。想像の中にずっと浸っていられるなら、大抵の人間はそっちを選ぶだろう」 「だけど」 「そう。エンドレスに続くわけじゃない。なのに、その味を忘れられず、エンドレスに求めてしまう…… 知ってるか、【青い熱】は、【青い春】の百倍以上の高値なんだ」 「え、じゃあ……二百万以上か!?」  オオバは深く頷いた。 「たっけぇ……高すぎる」 「とても学生には買えない値段だよ。だから、アナウンスはこう言うんだ――『保護者様のカードをお持ち 頂ければ』――と、な」 「…オオバ、まさかだけど……お前も?」  オオバは、かすかに微笑んだ。 「俺には、フルカワの気持が分かるよ」  オオバは、別の新聞を手に取った。 『男子高校生、父を刺殺 カード奪い取る また【青い春】』  記事を見ながら、続けた。 「確かに、唯一の肉親を殺してでも掴み取りたくなるほど、暖かみのある世界だ」  オオバは窓から外を見た。ここから遠くに小さく見える建物――そこに、現在フルカワは収容されている。 「だって、ここには何もないじゃないか。男しかいない……生身の女など見る機会もない。女の写真が 貼られた試験官を選んで、精子を差し出せば、子供が運ばれて来る。何の喜びもない……この、空虚な世界で ――あれが広まらないわけ、ないじゃないか」  男と女が遠ざけられた時代。  レイプ等の性犯罪が消滅し、その代わりに殺人事件が増えつつある、そんな時代の物語。