『てのひらを青空に』二次創作 −棗の夜−  進導円と一乗寺戒が、協力してリクオウとの激闘を制した夜――円を想う一人の若い女がいた。 しかしそのことは、円には……カラオケで戒の十八番をひたすら聴かされ続けていた円には、気付 くべくもなかったのであった。 −午前〇時−  沢白棗が、円がまだ帰宅していないこと――恐らくは、あの名も知らぬ闖入者に二人だけの空間 を破壊された時から――を確信したのは、円の家のインターホンを等間隔で計六回押し、不安に苛 まれながらも指先に祈りを込めて七回目を押して、それでも闇が光に退けられず、物音一つ聞こえ てこなかったからだった。  棗は思考を張巡らせた。円は普段、この時間は家にいる。少なくとも、棗が知る限り。もう少し 夜の浅い時間、八時や九時に電話を掛けても、円は必ずといってもいいほど出てくれた。円は他の 男の子達のように――今は"男の子"と呼ぶのが躊躇われる年齢になってしまったが――夜に家を抜 け出して、ゲームセンターやカラオケに出掛けるようなことはほとんどなかったのだから。  この時間までマドカが帰宅していないのは、マドカ自身に理由があるんじゃない。あの時、道場 に入ってきた、妙に軽そうな、訳のわからない人のせい。棗は円のことが心配でたまらなかった。 いや、考えてみれば――不安は思考を活発化させ、今朝見た謎の男と最近の円の変化とを結び付け て考えるように仕向けさせた。  マドカ、最近雰囲気が変わった気がする。今日だって、道場でのマドカの雰囲気は、普通じゃな かったもの。なにか、強い意志を持って、練習に励んでいた……漫然とじゃなく、きっと、鍛える 必要に迫られているから、そうしていた。必要……何のために必要かなんて、私にだって想像出来 る――戦いのため。そして、あの人はたぶん、マドカを戦いへと誘う――  ここまで考えて、棗は考えることを止めようと、ブンブン頭を振った。円の言葉を思い出してい た。 『大丈夫だって! 俺はどこにも行ったりしないよ。棗は心配性だねぇ…』  棗は、その言葉を信じようと思った。マドカは嘘をついたりしない。今日だって、あの人に遊び に連れて行かれてるだけ。きっと今頃カラオケにでも行っているんだわ……それとも、ううん、そ んなわけない。でも、あいつ、いかにも遊び人だったし……棗はまた不安になった。そんなわけは ないと思いながらも、あの遊び人風情の男のことを考えると、不安にならざるを得なかった。 「…いやらしいお店に連れて行かれてるなんて、そんなわけ――」  口に出してみると、なんだか少しおかしかった。棗は口元で僅かな笑みを作ると、私は確かに心 配性すぎるかもしれない、と思いながら円の家から身を翻し歩き出した。そういえば、円はこうも 言っていた。 『弁当箱は、洗って明日にでも返しに行くよ』  思い出して、棗は赤面した。もし、さっき円がいたら、きっと呆れられていただろう。明日返し に行くって言ったのに――と。それでも、棗は今、円に会いたかった。会って、明日――否、今日 の晩――棗の家での夕食に誘うつもりだった。 「弁当箱は、別に、明日でもいいけど……」  そう、棗は呟いた。星一つ見えぬ都会の夜に、それでも浮かぶ三日月を眺めながら。