魂のゆくえ  電車の混雑は、思ったほどじゃなかった。平日で、午後二時という中途半端な時間なのが良かっ たのだろうか。  友里は長椅子の端に座っていて、俺はその向かい側で様子を見る。  俯き加減の友里は、不安そうな気もするし、もう覚悟を決めているようにも見てとれる。俺には、 女の気持なんて解らない。  たとえ、それが、昔からの友達であっても。  駅前で待ち合わせして、目的地への電車に乗り込んで、その間会話は全くと言っていいほどなか った。「今日はありがとう」と友里が言って「いいって、別に」と俺が答えたくらいだ。  何が「別にいい」んだ。  これは、そんなに軽いことなのか?  友里の財布の中には、ここまで十年間、小学校一年の頃からコツコツ貯金していたお年玉の三分 の二が入っているという。  十年のうちの、六、七年分を、今日失ってしまう。安全に終わるかどうかも解らない手術のため に……  今度は、俺が俯く。考えずにはいられない。それでいいの――  気配がした。揺れる電車の中、友里が目の前に立っていた。友里は俺の手を取って、自分のお腹 に当てさせた。  無言で。  ただ、ほんの少しの、疲れたような笑みを浮かべて。  その病院は、降りた駅から歩いて五分のところにあった。 「荻臥レディースクリニック……」  これから友里は、ここで手術を受ける。  口元が震えている。怖いのだろう。病院の名前も震えていた。  何と声をかけていいのか分からない。励ました方がいいんだろうか……でも、どうやって? 「…じゃあ、行くね」  いつの間にか、友里の表情は引き締まっていた。切り替えの早さに、内心驚く。女だからだろう か?  俺は、こんなに戸惑っているというのに。 「五、六時間かかるってネットで見たから……どこかで時間潰してて。本当にゴメン……」 「…いや、いいよ。映画観たり服見たりするし。あっという間だよ、んな時間……」 「…そっ」  友里は、荻臥レディースクリニックに入って行った。振り返らずに。  友里が戻ってくるまでどうしようか、と考えると、自分のことをしてる場合じゃないって思えた。 映画観たり服見たりCD探したり……は、今することじゃない。そんな気がした。  俺は、友里を励ましたい。  昔からの友達。  いい奴。  あいつのために、何かしてやりたい。あいつは、何が好きだろう……  …そういえば、まだ小学生の頃、友里の部屋へ遊びに行ったことがあった。部屋はぬいぐるみで 一杯だったっけ。  ――ゲーセンにやって来てまず最初にしたことは、千円札を百円玉に両替しまくる作業だった。  あっという間に日が暮れた。友里を待って、荻臥レディースクリニック前のベンチに座り、夜空 の星を眺めながら、ぼんやりと俺は理解した。  …UFOキャッチャーの才能が、致命的にない。  こんなんなら、LOFTとかで買った方がよっぽど良かったように思えてならない。てか、その 方が絶対にマシだった!  自分の馬鹿さ加減に対する怒りは、他人に向いた。 「…そもそも、今日来るべきは、俺じゃなくて、お前だろうが……クソ野郎」  名も顔も知らない男に向かって、俺は毒づいた。 「お前が友里を苦しめてるんじゃねぇか……同意書に名前書いてハンコついて、さぁ行って来い、 か。ふざけんなよ。なんで俺なんだよ、付いていく役割はお前にあンじゃねぇのかよ……」  きぃ、とドアの開く音がした。 「…おまたせしました」 「だいぶ、まちました」  怒りは、絶対に友里には見せない。 「…どうしたの、これ?」  友里は、ネコのぬいぐるみを見て言った。 「ふと昔のことを思い出した。お前、ネコ飼ってるもんな。部屋もネコのぬいぐるみが多かった… …ような……気がした」  友里は、少し寂しそうな顔をした。 「…コテツ、去年死んじゃったんだ」 「…マジすか」  残念な展開だ。とても。 「でも、ネコは好きだよ。今も、新しいネコを飼ってるの」 「そっか……あ、行こうか?」  俺は立ち上がった。友里も頷いて、駅に向かって歩き出す。 「でもさ、飼ってた動物死んじゃうと、次飼う気しなくなんない? ウチの犬が死んだ時なんて、 親両方とも、次別れるのが辛いから飼いたくない、って言ってた」 「うん……でも、その子――もらったんだけどね。凄く、コテツに似てて」  "誰に"もらったのだろう。訊きたかったが、止めておく。 「だから、生まれ変わりかもね、って話して」 「じゃあ、名前もまたコテツ?」 「ううん、アントニオ」 「…そうか」  釈然としないまま、駅に着いた。あっという間だ。  電車は、行きと比べてさらに乗客が少なかった。本当に、俺と友里以外誰もいない。また長椅子 に座った。今度は隣に座った。 「…忘れてた」 「ん」  ん、と漏らした友里に、なんか分からないが、心がずきっとした。 「…このぬいぐるみ、UFOキャッチャーで獲ったんだよ」  ネコのぬいぐるみを差し出した。これは友里を励ますために獲ったのだから、あげるのが当然だ。 「くれるの? ありがとう……」 「三千円かかった」  そう聞くと、友里もさすがに驚いた。 「ウソ、これだけに?」 「思った以上に、才能がなかった」 「…大事にしなきゃいけないね」 「そうしてもらえると……」  それから、一つの駅に停車した。会話は途切れた。降りる駅まで、あと三駅。 「…いい?」  先に口を開いたのは、友里だった。 「うん」  俺は答える。 「正直、すっごいフラフラする……麻酔が残ってるっぽい」 「家まで送る」 「ううん、大丈夫……」  昔から、友里が「大丈夫」と言う時はあまり大丈夫じゃないことが多い。たとえ断られても、絶 対に送らなきゃいけないと思った。 「…あたし、ホント、バカなことしたよ」 「…妊娠したこと?」  友里が、話し始めた。つらそうな表情。 「あの人が、求めてきたの。怖かったし、嫌だったけど、断ったら嫌われると思った。そっちの方 が怖くて……あそこで断って、別れてたら、こんなことにならずに済んだのにね」  友里が心配だった。今にも泣き出しそうな雰囲気だった。  ただでさえ体力を消耗しているのに、精神的にも追い詰められたら、かなり危ないんじゃない か? 「同意書、持って行ったら、書けばいいんだろ? って……あんな人だと思わなかった。そんなこ と、解らなかった。そして、人殺しはあたしだ」  そうか――友里には、罪の意識があるんだ。  魂を消し去った。  生まれて来るはずの命を、魂を、なかったことにしてしまった。 「もう決めてるんだ。これから、あたし、死ぬまで、生まれて来るはずだった子供に謝りながら生 きていく……もう帰って来ないから」 「違うんじゃないか」 「…え」  友里を助けたい。友里が好きだ。  想いが溢れてきそうだった。  俺は友里が好きなんだと、ハッキリと理解した。好きだからこそ、助けたい。立ち直らせたい。 ここで友里を助けられなかったら、俺はずっとそのことを悔いて生きていかなければならない。  ウソをつこう。  人を救う力のある、ウソをつこう。 「…何が違うの?」 「俺さ、長男なんだけど、次男なんだ」  友里は、きょとんとした顔。  友里は当然知っている。俺が長男だということを。 「本当は、二つ上に兄貴がいたんだよ。生まれる前に、流れちゃったんだけど」 「流産、ってこと」 「うん。俺は、兄貴の名前をもらったんだ。兄貴につくはずだった名前を――そして、魂も」 「魂?」 「親が……ウチの母親が、兄貴は消えてないんだ、って。兄貴はほんの少しの間、身体を持たない まま生きていただけだって。そして俺が生まれて、兄貴の魂がやっと収まるところに収まった―― って、そう言ってた」  ――ウソだ。  だけど、構わない。人を助けられるウソなら、いくらでもついていい。俺は確かに長男だし、母 親も流産なんてしたことない。  だけど、友里の中でだけは、一生そういうことにしといてもらいたい。このウソで、友里が少し でも生きる力を取り戻せれば、それで十分だ。 「…消えない、のかな……」 「生まれて来るはずだった命は、魂だけまだ友里の中に残ってる」 「…まだ、あたしの中に、いるの、かな」 「待ってんだよ、次の機会を」 「…続いて行く……」 「だから、これからも頑張って生きてって、未来でその子と会おう……って」  肩に、他人の体温。  友里は寝てしまった。眠りを誘う電車の揺れと、手術の疲れ。そして心の安寧を得たのだ……そ う信じよう。  友里の体温を感じながら、ふと思う。"未来"に出会う魂は、俺と友里の血で作られた器の中に収 まって欲しい。そうであって欲しいと願う。だけど、こればっかりは…… 「…分かんねぇよなあ、女のことは……」  未来に思いを馳せるのに疲れて、つい俺も眠りたくなってしまうが、そういうわけにはいかない。  降りる駅まで、あと一駅。  乗り過ごさないよう、俺は起きていないといけない。