過ぎ去った日々のこと  成人式で、川崎の名前は呼ばれなかった。  川崎とは小中高と、ずっと一緒だった――と言っても、仲良しだったわけじゃない。結局、最後 まで積極的に会話をすることはなかった。何度か同じクラスになったにも関わらず、だ。遊んだこ とはあるけれど、男女数人ずつの固まりの中にお互いいただけだ。中学卒業の時には飲み会もした。 しかし俺は当時酒に弱く、即潰れたので全く記憶がなかった。  だけど、無関心だったわけじゃない。高校卒業の時、妙に寂しくなったのは、とうとう川崎と違 う学校になるなあ、とふと思ったからかもしれない。  中三くらいから、ある噂を聞くようになった。 「川崎は金もらえば誰にでもやらせる」 「家庭教師から金もらってHしてる」 「こないだ中絶したらしいよ。休んだのもそのせいだって」  ――根も葉もない噂だ。  あの時、俺はそれらの噂に対して無関心を装っていた。本当は怒りたかったが、そうするとヘン に勘ぐられそうだったから、自分を抑えていた。  だが、本当は、気に掛かってしょうがなかったのだ。信じていないのではなく、信じたくなかっ た。  川崎は、今にして思えば、あの年代の女としては、艶があった。仕草一つ見ても、ドキドキした ものだった。そのせいもあってか、俺は「年上の男とベッドで一つになっている川崎」の姿を妄想 していた。その妄想には無理がなかったし、あまりにもしっくり来た。その妄想で、何度となく手 を汚した。  中三の頃が、一番川崎を好きでいた時期だった。何も出来なかったのは、ひとえに俺の煮え切ら なさによるものだ。  "気持は伝えなければ一生後悔する"――大人はそう言うけれど、そんなわけねェと思っていた。 しかし今、やっとそれが本当だと分かってきた。  高一の時。  図書館で、突然話し掛けられた。 「なにしてんの」  これが川崎の第一声だった。 「…中間近いから、間に合わせの勉強中」 「そーか、マジメだね、英喜は」  川崎は、割とさっぱりした性格だった。ほとんどの人間を下の名前で呼んでいたし、また、下の 名前で呼ばれたからと言って特別な関係なわけでも何でもないのだ。 「川崎さんは勉強せんでいいの」 「んー。どーせあたしバカだし?」  本人はそう言ったが、川崎は俺より少し成績が良かった。高校に入った頃から男遊びがハデにな っていたので、本当に勉強は全くしていなかったのだろうが。また、川崎からはほのかに煙草の臭 いもした。何時頃から吸い始めたのかは知らないが、中学の時はこんな臭いはなかった気がする。 だから、男の影響だったかもしれない。 「…英喜、あたしさあ……」 「んー」 「…どうしようかな、生理来ないんだけど」  図書館である。  図書館でする話じゃない。  夕暮れの中、駅へ向けて、川崎ととぼとぼ歩く。話を聞きながら―― 「…こないだ、彼氏の部屋に泊まった時、飲みすぎちゃって記憶トンでるんだよね。そん時、ゴム つけないでやられたかもしんない。アイツも酔ってたし」 「…うーん」 「先月来なくて、今月もまだなんだ」  川崎が言った時、産婦人科の隣を通り過ぎて、少し緊張したのを覚えている。  何を言えばいいのか、ずっと考え続けていた。 「…もし出来てたら、どーしようかなあ」 「…もっかいさ、彼氏と話してみるといいんじゃね。もしホントに中出ししたんなら、忘れてるわ けないし、とぼけたら追及してさ」 「まあ、それしかないよねえ。責任とかなんとか」 「そそ。向こうが悪いんだから。でも――」 「…でも?」 「――来月まで待ってみたら? もしかしたら、今月中に生理来るかもしんねぇし。言ったあとに 来ちゃったら、彼氏と気まずくなるっしょ」 「確実に別れコースだねー」 「だべ。それが嫌ならさ、もうちょい様子見ておこうぜ」 「うん」  川崎はこの時も不安そうな顔をしていたが、頷いてくれたので、そうしようと思ったのだろう。  そして次の月。廊下で川崎とすれ違った。  あ、と思ったが、何のリアクションもなかったので、黙って通り過ぎようと思っていた。  しかし、川崎はすれ違う時、俺の耳元に言葉を残していった。  ――生理来たよ。  成人式がようやく終わって、俺は寒空の下、グイッと伸びをした。 「よー、英喜」 「おー、太田」  中学の同級生の太田がいた。俺は高校卒業して東京の大学に進学したが、太田は高校を卒業後、 地元に残って家業を継いでいた。ちょうどいいと思った。 「あのさあ、太田。川崎さんってどうしてるか分かる?」 「川崎?」  太田は、不思議そうな顔をした。忘れているのだろうか? でも、無理ないかも。中学を卒業し たのだって、もう五年も前なんだからな―― 「ほら、あの背が高くて、大人っぽかった、三組の女」 「…ああ! "元"川崎ね」 「…元?」 「あ、あそこいるよ。ホラ、あの階段とこ」  ホールの玄関正面階段を、俺は見た。  そこには、赤ん坊を抱えた"元"川崎が、笑顔で共に成人式を終えた友人達と談笑していた。  その姿、俺は一生忘れられないのだろう。