「仕方ない」で済ませられれば、どれほど楽なことだろう  今日はいい風が吹いている。広々とした草原の中、僕と佐恵子は二人きりだった。  僕はしゃがんで、今日飛ばす凧の準備をしていた。恵美の愛馬だった馬の鬣で、骨の一部を凧に 括り付ける。飛ばされないように、落ちないように、ギュっと縛り付ける。  佐恵子は、まだピンと来ていない様子だった。それはそうだ。佐恵子はまだ二歳に満たない。こ こまで来る間、車中で「おかあさんどこ?」と訊かれ、どう答えていいものか悩んだ。悩んだ結果、 僕は「お母さんはお空の上に行ったんだよ」と答えた。  だから、僕と佐恵子は今日という快晴の日に、凧を飛ばす。  恵美は騎手だった。  男社会であるところの競馬界に単身飛び込み、ハンデを乗り越えて、次々と勝ち星を挙げて行っ た。名古屋競馬所属、所謂地方競馬の騎手ながら、多くのメディアに取り上げられた。彼女は客観 的に見ても、順風満帆な人生を送っていた。そう、僕には見えた。だからこそ、彼女との結婚は、 正直迷いもあった。家庭を作るのであれば、僕は子供が欲しかった。子供を産んでもらうというこ とは、産休期間ができる。産んでからも、育休期間が必要になる。合わせて一年以上の休みになる であろうことは明白だった。騎手としての彼女が、それに耐えられるのか? だから、僕は結婚前 にあえて訊いた。 「結婚して、それから子供を産みたいと思う?」  彼女はにんまり笑って、こう答えた。 「もちろん!」  恵美が難色を示したら、その時は別れようと決めていた。無理すれば彼女に合わせて、子供のな い家庭に甘んじることもできるかもしれない。しかし、そこには笑顔はないと思ったのだ。どちら かが無理していると、関係は遠からず崩壊する。彼女と僕の気持が同調しているのなら、何も迷う 必要はなかった。僕は恵美を愛している。  結婚してすぐに佐恵子を妊娠した恵美は、妊娠の事実を確認した瞬間に、所属厩舎に一年半の休 業を申し出た。内容が内容だけに調教師も反対はできず、即日受理された。  それから出産までの間、僕は恵美と毎日一緒にいることができた。それは中学以来、十年ぶりの ことだった。  恵美は中学を卒業してすぐに名古屋を離れ、栃木県の地方競馬教養センターで二年間の騎手課程 に臨んだ。携帯も普及していなかった十年前、手紙のやり取りで状況を知った。 『凄く辛いよ。でも、頑張る。夢だから』  教養センターでの生活は厳しく辛いものだったそうだが、恵美は耐えた。毎朝五時半に起こされ、 厩舎作業、騎乗訓練、そして学科授業。文面から彼女の苦労が伝わってくるようだった。僕は、恵 美を尊敬した。そんな世界に飛び込んでいける気持の強さを。同時に恨みもした。なんだか、あの 時僕は捨てられたような気がしてならなかった。  別の女の子と付き合おうかと思った事もある。実際、十七歳の時飲み会で、知らない子とホテル に行く流れになりかけたこともある。でも、結局僕は行かなかった。恵美を信じたかった。帰って きたら、きっとまた僕のところへ戻ってきてくれる。捨ててなんかいない、あの子は、そんな子じ ゃないと――  二年間が過ぎ、恵美は名古屋競馬の騎手試験に合格した。十八歳で勝負の世界に飛び込む気持は、 僕には分からなかった。通常、十八歳はまだ社会に子供扱いしてもらえる年齢だ。だが、勝負の世 界ではそうもいかない。レースで失敗すれば容赦なく罵倒される。その中には、女性騎手であるこ とを理由とした卑猥な内容のものもあった。競馬場には何度も足を運んだが、何も思わず帰れる日 は一日たりともなかった。恵美を罵倒する奴は殴り飛ばしたくなるし、レースになれば落馬しやし ないかと気が気でなかった。  それでも僕は、恵美が変わっていないことに、それだけに、ただ惹き付けられていた。彼女の笑 顔は僕の全てだった。そう言い切ることに何の躊躇いもなかった。  恵美は僕のことを捨ててなんかなく、教養センターから戻ってきて最初に会った時、抱き付いて きてくれた。久しぶりに感じた恵美の暖かさは、僕の涙腺に直接響いた。そう、捨ててなんかいな かった。騎手になったって、恵美は恵美のままだった。  そして佐恵子が生まれた。  恵美の溺愛っぷりたらなかった。騎手として復帰するまで、三人で色々なところへ行ったな。 「復帰したら忙しくなっちゃうから――」旅行の発案者は、常に恵美だった。今思えば、彼女は自 分の残り時間を知っていたように思えてならない。そんなわけはないのだが、そうとしか思えない のだ。  あの日の、第六レース。  レースの内容を明瞭に思い返すことはできない。脳がブレーキを掛けているのだと思う。思い出 せるのならきっと何度でも思い出すし、夢にも出てくるだろう。生きていくためには、思い出せな いようにするのがきっと一番いい。  ただ、スタンドの雰囲気は、覚えている。  絶望的な空気が、辺りに蔓延していた。  場内アナウンスは冷淡に「10番は故障のため2コーナーで競走を中止しました。なお、小牧恵 美騎手は検査のため、以降のレース乗り替りとなります――」だけで片付けた。  失ったものは、あまりにも大きい。  もしかして、僕はまだ、その失ったもの全てを把握し切れていないのかもしれない。生き続けて いくことで、段々と、思い出すように、実感していくものなのかもしれない。今はまだ、分からな い。  恵美が死んだなら、僕も死にたい。  だけど僕まで死ぬわけにはいかない。僕には、佐恵子がいる。僕と恵美との間に産まれた、可愛 い愛娘がいる。死ぬわけにはいかない。生きて、恵美の分まで生き続けて、佐恵子を立派に育て上 げなくてはならない。それは恵美から与えられた使命であり、また、彼女の望みでもある。  昔なら、僕には恵美しかなかった。今は佐恵子しかない。佐恵子さえいてくれるなら、僕はこれ からも生きていける。僕はこれから佐恵子のためだけに生きていく。 「たこ、たこ〜!」 「たこさん、気持良さそうに飛んでるね」  風はあっという間に凧と、恵美の遺骨を空に舞い上げた。  見ているか?  佐恵子の笑顔は、お前に負けないくらいの可愛さだ。  きっと、お前に似ていい子になるよ。だけど、お前ほどの意志の強さは持たないで欲しいな…… 普通に高校に行って、大学に行って、就職して、結婚して――それでいいと思わないか? なあ。  …もし、望むなら、止められないけどな。  …お前が復帰して暫く経ってから落ちたのは、俺を思ってのことか? 復帰してすぐに落ちたら、 復帰を認めた俺が自責の念に駆られてしまうんじゃないかと。落ちたのはブランクのせいじゃなく て、たまたま。仕方ないこと――そう俺に思わせるために、きっとお前は……  …仕方ないことで済めば、楽だよな。本当は、そう思うべきなんだろうなあ。いつか本当にそう 思えて、心が楽になる時は来るのかな?  ――お前が死んでから、俺は一度としてまともに眠れたことがないよ。 「わー」  風が強くなって、佐恵子の手から糸が離れそうになる。僕はその小さな手を握り、一緒になって 支える。  佐恵子。暖かい。  佐恵子、もうお母さんはいないんだけど、それでも、君と僕は生きていかなくちゃならないんだ よ。きっと君はこれから、もっと大きくなって、会話が成り立つようになって、反抗期もきて、恋 愛もするし、僕を心配させるようなこともたくさんするんだろうね。  …どんどんしていい。  ただ、一つだけ守ってくれないか?  俺から、離れないでくれ――  どんどん凧は、うきあがる。まるで幼子の心のように。