生活  父は三年前に姿を消したけど、それでも日常は続いている。もちろん全く気にならないわけでは ないけれど、父のことを思い出している間に――弟のタカシを蹴り起こし服着せて、妹のメイコを 叩き起こしてトイレ行かせて、ちゃぶ台にご飯と納豆置いて目玉焼き焼いて、茄子細く切って味噌 汁入れてまとめて食わせて仕度させて――まで出来るから、あんまり気にしないことにしている。  思い出すとしたら、タカシとメイコを学校に行かせた後のことだ。学校は去年卒業したので、今 はほとんどの時間を畑に使うことが出来る。今日は天気も良く、作業がとてもはかどりそう。父の アドバイスに、近くの"タミおばあさん"の知恵を足したら、収穫量が爆発的に増えて嬉しい悲鳴を 上げている。一杯茄子がとれるってだけで、永遠とも思えるような害虫の駆除や、害虫にやられて 弱ってる枝葉を切り取る作業も嫌にならないのが不思議だ。作業に没頭してくると頭の中に何もな くなってくるから、その隙間に父がすっと入り込んでくる感じ。  ――父は置き手紙しか残さなかった。あと強いて言えば、肥料とか新しい"くわ"とかジョウロと かその他色々をどさっと一山。文面を見ても特にセンチメンタルでもなく、書いてあったのはただ 一つ。 「どう生きていくか?」  この一文で始まった手紙は、最後まで"生きていく方法"についてだけ書き連ねられていた。ガン バレだのアイシテルだのそういうのは一切なし。父らしいといえばらしかったので、私はなるほど と思った。弟も妹も泣きわめいたりしなかった。小さな子供ながら、なんとなくこうなるのが分か っていたのだろう。  父は旅好きで、だけど家族旅行が嫌いだった。きっと今も旅の最中だ。まあ、そのうち帰ってく るだろう――  父が書いたとおり、ここで生きていくのはそんなに難しいことじゃなかった。とにかく茄子を作 ればいい。農協に卸せばいい。そうすればお金が入る。二人を小学校に行かせるには十分な額のお 金が入る。余ったら直売所で売ってもいい。この辺には、コンクリートの都会から自然を求めてド ライブしてくる人もけっこういるので、そういう人たちが買ってってくれたりする。いいカモだと 言っても過言じゃない。  もちろん、茄子は自分達の胃にも入る。だけど茄子以外も食べなきゃならない。車で片道一時間 のところにある一応スーパーと呼べる店は、夕方にさっさと閉まる。だからそこで買い物するのは 年に数回。食材は近くの農家の人との物々交換だったり、一方的に頂いたりで。父が置いていった 中にはレシピ本も大量にあったし、元々料理は好きだから、珍しい食材を頂くとけっこうワクワク するのだ。生きたままのニワトリを自分で絞めた時は興奮した。ヤる前は多少恐ろしく感じるが、 慣れてしまえば快楽のトリコになる。自分で絞めたニワトリは最高に美味い。申し訳ない、と思い つつ食べるが、申し訳なさなんてすぐさまどっかに消えてしまうのが常だった。  そういうわけで、生きていくのに食の面では不足なしと言える。足りないものはあるが、別にそ れでよくね? と思えるのが自給自足の最大のメリットではないかと私は思う。タカシとメイコは 多分違うけれど。  ――今日の作業は、こんなもんにしておこう。天気いいと思っていたら、遠くから黒い雲がやっ て来た。  雨音が聞こえる。屋根を叩く無数の音が心地良くも感じた。だけど悦に浸ってる暇はない。時計 を見たらもう三時過ぎ。油断してうとうとしてしまった。タカとメイを迎えに行かなきゃ。あいつ ら、傘なんて持っていない。 「行かなくていい」  長靴を履こうとしたら、寝ていた居間からなぜか父の声がした。 「お父さん」 「この雨はすぐに止む。タカシもメイコももうすぐ帰ってくる。見てみろ」  父が指差す窓の外を見た。確かに雲はいなくなろうとしている。雨音も段々小さく、間が空いて きている。 「永遠に続くものなんて何もない。だからこそお前は耳と目を」 「"野生動物のように研ぎ澄まし"でしょ――」  父のお決まりの台詞を、私は先に言ってやった。 「二十の女の割には生き物らしく、身体に従って生きてるつもりだよ?」 「…そうだな。だが、まだまだだよ。今の生活を続けていくことを、お前が心底望むのなら」  父の笑顔を久し振りに見た。本当に、久し振りに見た。 「お前は今のまま生きていけ。そして時期が来たら、タミおばさんとこのヨシハルくんの嫁にでも なれ」 「ヨシハルくん、今東京で大学生やってるよ」  父が出てったのは私がまだ高校生の頃だから、ヨシハルくんが有名な大学に奇跡的に受かったこ とを知らなかったのだろう。なんだかガクッときている。 「そんな顔しないでよ。私は私でとにかく生きてくからさ」  戸が開く音がして、私は玄関へ向かった。いくら雨足が速かったとはいえ、きっと濡れている。 だからタオルを持って、二人の頭をガシガシ擦ってやった。  居間に戻ったら、父の姿はなかった。  それからもずっと私は生き物らしく生きている。父を見たのは、あの雨の日が今のところ最後だ。  十年経っても茄子畑から見る周囲の様子は変わらず、タミおばあさんの健脚っぷりも変わらない。 タミさんを見ると、私もこんなおばあさんになりたいといつも思うのだ。 「タミさーん」  タミはおばあさんだからこっちに気付かない。身体は丈夫でも耳は遠くなっている。 「タミさ〜んっ!」  腹に力を込めて叫んだら、やっと通じた。 「お茶でも飲みません?」  タミさんはにっこりして頷いた。 「レイちゃん、タカちゃんとメイちゃんはどうした?」  どっこら腰を下ろしたタミさんにお茶を渡すと、最近何度か訊かれたことを訊かれた。私は同じ ように答える。 「タカシは奨学金で大学へ行ったよ。六大学のエースになるんだ、ってさ。メイコは今年から高校 生。タカシと一緒に住んでるよ。どっちもコンクリート住宅、ハハハ」 「寂しくないかい、レイちゃん」  タミさんはまた、いつもと同じことを訊いてくれた。タミさんのお蔭で、私は何度でも自分自身 を見なおせる。 「ううん、二人とも自分の生き方をしてるだけ。寂しくないよ。東京なんて、遠くないし。それに、 私はこの生活が最高に自分に合ってるって思うから」  周りの人によく「作業中のあんたは恐い」と言われる。私が見ている"私"は随分と楽しそうで、 充実してるように見えるのに。  人に見えない"自分"が見える。だから畑仕事は止められないのだ。これが私にとっての生活。タ カシにはタカシの生活があり、メイコにはメイコの、そして父には父の生活が――  この十年で私は知識をつけ、経験を積んだ。今の私を父が見たら、少しは野生動物に近づいたと、 果たして言ってくれるだろうか。  さて。 「タミさん、ニワトリ余ってる?」 「おるよ、イキのいいのが」 「じゃあ一羽頂戴! 茄子一杯上げるからさ」  今日の"生命活動"への御褒美は、ニワトリ丸々一羽に決定。