青い涙  その女は繁華街の陰に隠れるように倒れていた。  今しがた頭の軽い女子高生を一万で買い叩いたばかりの男は、繁華街の陰に焦点を定めた。  ――空ろな表情。何も求めていなさそうな、だからこそ全てをあるがままに受け入れそうな瞳。  逡巡することなく、男は女を拾った。  男は女に酒を与えた。場所はお笑いタレントが作ったとされる、最近多い類の居酒屋である。  予想外に味がいいな、と男は思った。  女は酒をただただ体内に流し込んでいる。強い酒ばかりを。  ここまで、二人には一言の会話もなかった。 「…私の」  初めに口を開いたのは、女の方だった。 「うん」 「私の話を、聞いてくれますか」  男は頷いた。 「私は肥溜の中で産声を上げました。とても綺麗な肥溜でした。この世に生まれ落ちたことに 絶望して産声を上げたわけでは、決してありませんでした」 「成長していくにつれ、この世はそんなに綺麗なことばかりではないのだ、と知りました」  女は日本酒を飲み干した。 「母が発狂しました。父が酒びたりになりました。私には、父と母のどちらにも、特に問題が あるようには思えませんでした。父と母は、そんなに綺麗でないこの世に全身浸かってしまった のだと、だからおかしくなってしまったのだと、他人事のように思っていました」 「母に暴言を浴びせられました。主に生活態度について言われました。酷い言われ様でした。 ただお皿を割っただけなのに、箸の使い方が少しおかしいだけなのに、お風呂に入るのが少し 遅かっただけなのに、"アンタなど作らなければ良かった"と、金切り声で罵られました」  女はシソ焼酎を飲み干した。 「父は、女になった私を使って、母で充たせない性的欲求を充たそうとしました。 "もう処女じゃないのか。お前の最初の男は誰だ"と、単純な腰の動きを繰り返しながら、 尋ねるのです。高校進学のために家を出る直前のことでした。寮に着いてから、 友達にもらったピルを飲みました」  女はカルア・ミルクを飲み干した。  どこかで聞いたような話だな〜、と男は思っていたが言わなかった。  そういえば、この女の顔はどこかで見たことがある。どこだっただろう……確か本屋で…… 「私の通っている高校はとても現代的で。同級生は、必要以上に難しいことを考えることもなく、 ただ快楽を優先していました。彼らはそれでも、それなり以上に生きられた」 「放課後は友達の部屋で乱痴気騒ぎをしていました。私は望みもせず、拒みもしませんでした。 酒や煙草は当たり前で、合法なのか違法なのか判らないドラッグもたくさんありました。 私は望みも拒みもしませんでした。ドラッグをしながら性交する友達の姿は、滑稽とも、芸術的 とも思えました。買い置きのピルの量は、瞬く間に増えていきました。副作用にも慣れていきました」  …どうでもいいや。有名人でも無名でも、どうでも。  男は面倒な思考能力を、酒に投げ捨てた。  女はウィスキーを飲み干した。  男はふらつく女の肩を抱いて、自らの住むアパートへと向かった。 「私は、思ったのです。この世は綺麗ではない。だけど、綺麗ではない部分を見つけて、それをじっと 見ていても、必要以上に心乱すこともなく、浸り込むこともなく、醒めた目を保ち続けることが出来れば、 それが幸せなのではないかと」 「着いたよ――」  男は女の話を聞き流していた。全てを聞き流していた。男にとって女の素性はどうでも良かった。 考え方にもまるで興味はなかった。  男の中にあったのは、触れてみて分かった、この女の意外に豊満な肉体を、思うがままに貪りつくしたい という劣情だけだった。  女は裸に剥かれ、男の上に座らされた。  安物のベッドはぎしぎしと音を立て苦しそうだった。音と一緒に女の乳房は揺れた。男は女の腰に手を置き 揺れながら、たまに思い出したように乳房を掴んだ。  女は呼吸を乱すことがなかった。その代わりに、何も言わなかった。ただ感覚を、確実に捉えていた。 子宮に当たる感覚を。子宮を感じられるのは今だけだった。  男には女のことを思いやる余裕がなかった。ただ、喘がないことに若干不満を感じただけだった。男は女の 乳首を摘んで、指紋の溝で擦った。背中に手を回して女を自分に引き寄せて、その豊満な胸の中に顔を埋めた。  やがて体位が変わり、男が女の中で果てても、女は男の目を見ることさえしなかった。苛立った男は、 女の上に倒れ込んだ際、わざと額と額をぶつけた。  女は痛がる素振りを見せず、男は額を擦り後悔した。  やがて男は、女の胸の感触を自らの胸から腹にかけて感じながら、眠りに落ちた。  女が寝静まることなどないまま、窓の外が白み始めた。  女は男を起こさないよう気を遣って、自分の上から退かした。長い間密着していたため、肌が離れるとき、 ぺり、と音がした。  名残惜しさなどなかった。 女は服を着た。  新大阪駅。女は新快速の始発に乗り込んだ。  始発とはいえ平日である。通勤客や学生が多い。誰もいない空間が欲しい――女は、乗降口に留まった。 ここならば誰もいない。 誰もいないから、言葉を発せられる。 「…【孤独と光】」  女は、言葉を紡ぎ始めた。 「たとえば孤独な女 たとえば孤独な男 墜ちるに値する そのやわらかな心 やわらかな魂 やわらかなからだ  やわらかなゆりかご それらがあれば 君は満足できるのか 悲しみを受け入れられないのなら 君は悲しみを 投げ捨ててしまうのか 私は訊いてみたい 君の孤独は本当なのか 私の孤独は 孤独の正体 孤独の心」  ひとしきり、目を瞑って考えた女。 「孤独の世界 孤独の未来 孤独の悲しみ 酒やあやしげなものの中に 孤独が溶けている 酒やあやしげなものの中で  孤独が笑ってこちらを見ている 孤独がやさしく見つめている 孤独の手を掴もうとすると それは私をすり抜けて  すっかり消えてしまった 青い涙を置き土産に それは綺麗に 消えてしまった」  女は、熱い溜息をついた。 「…【青い涙】……にしよう」  新快速は京都に止まった。女は降りた。  またピルを飲まなければならない。  今度は先にもらって、飲んでおこう。どうせ、あの部屋には売るほどあるのだ。これから何度も繰り返すのだから……  子宮でしかモノを考えられないのだから。  子宮しか助けてくれないのだから。上半身の思考など、酒で流れてしまえば良い。  朝焼けの女流詩人、サラリーマンや学生に紛れて根城へ消える。