マイナスから考える、人生  今生きてて「楽しい!」って元気に、素直に言える人って、どれ位いんだろう。  そういう、人生を楽しんでる人達が、なんだかとても羨ましい。  どうも、夢というのは現状と相反する内容だったりするらしい。  夢の中のぼくは、笑っていた。  心から、楽しそうに、嬉しそうに。  今、寝起きのぼくの顔はどうだろう。きっと鏡で見るまでもなく、むくんで、厚ぼったくて、見 れたものじゃあるまい。  ケータイを見たら、7時だった。  ぼくは突発的に、迷惑だろうと思いながらも、瀧川ハルコに電話を掛けた。  ベル音が3回鳴った後、ハルコに繋がった。 「なに?」 「あ、いや……今なにしてんのかなって」 「今? 着替え中だけど」  着替え中。  言う人間が言えば、魅力的な言葉だ。  妄想が頭を駆け巡るも、ぼくは努めて冷静さをアピールしようとした。 「この時間からもう着替えてんだ。はやくね?」 「あたしはなんでもゆとりがないとイヤなの。それよりどうしたの、こんな時間にめずらしい人か ら電話掛かってきて、何気にビックリしてんだけど」  笑いながらハルコは言った。その顔は、苦笑いだろう。と想像した。  ハルコが、苦笑いでぼくと会話をしながら、スカートに足を通しているのだ。 「いや、気が向いただけなんだけどね」 「ひでー」  ハルコはまた笑っている。  ハルコは、想像だにしていないだろう。  この時間、自分がある一人の同級生に想われているということを。 「ところで、瀧川は夢見た?」 「夢? 夢って、寝てる時に見るやつのほう?」 「そう、それ。俺は今日見たんだけど」  分かっている。今のぼくはきっと、気持ちの悪い男だ。自分では、そう思う。  だけど、案外、自分ではそう思っていても、相手はまた別の印象を持っていたりすることが多い。  ハルコは多分、今のぼくのことを気持ち悪いとは思っていないだろう。とはいえ、決していい感 情も持ってはいないだろうが。  ハルコは、早く電話を切りたくて仕方がないはずだ。そして冬用のふとももまで覆うニーソック スを穿き、マフラーで首を包み、家を出る準備を整えたいと思っているに違いないのだ。  きっと、そうだ。そう思っているんだ、瀧川ハルコは。  だが、そんなことは、知ったことじゃない。 「なんだかスゲー明るい夢でさ」 「ああ、あたしも今日見たなあ。でも、あたしのはそうでもなかったよ」 「あああ、やっぱり」 「やっぱり?」 「夢ってのはね、不幸せなやつほど明るい内容のを見るんだよ。なんでかってと“夢”だからね」 「ああー。じゃあ、暗い夢のほうが、実生活にはいいと」 「そういうことかな」 「そうなんだあ。へえー。あ」  ハルコは、この電話を終わらせにかかった。 「もう20分過ぎだ、ゴメン切るね。じゃあ学校で」 「うん、学校で」  ハルコの声は途切れた。  そしてぼくは学校を休んだ。  最近、時計の進みが早くなったと感じる。  小学生の頃は、夕暮れから夜になるまでが、とても長く感じていた。それが今では、一瞬だ。  夜は、長い。完全に日が沈んでから、朝日が浮かんで来るまではとても長く感じる。  しかし、それもきっと、あと何年かしたら、短く感じるようになってしまうんだろう。  大人は皆「20歳を過ぎると早い」と言う。それは、夜が短くなるからなんだ。  夜が更けてから、一瞬で空が白んでくる。そんな光景、想像したくもない。  そういう時がくるのを、ぼくはとても怖れている。 「浮かない顔して、どうした」  今は、夕食だった。  爺ちゃんが、ぼくに話し掛けてきた。 「なんでもないよ」 「なんでもないことあるか。なんか悩みでもあるんか」  爺ちゃんは今年で83になるが、今でも元気だ。声も口調も若々しい。両親には本音は言いづら いが(お互いにヒステリックになることがある)、爺ちゃんには昔から何でも言えた。  爺ちゃんは、全てを飲み込んで、理解して、噛み砕いて諭してくれるから。 「…いやね、つまんねぇなあ、と思ってさ」 「つまらねぇ?」 「なんか、最近、生きてて楽しいと思えないんだよね。勿論、あのアルバムが良かったとか、あの 小説が泣けたとか、そういうのはあるけど、そういうことじゃなくって……」 「ああ、そういうので得る楽しさは、所詮本物の楽しさじゃねぇからな。薄っぺれぇ」 「うん、なんだか、聞いたリ読んだり見たりして笑ったり泣いたりはできるんだけど、空洞ってい うのかな? それって空っぽで、皆空しく響いて感じる」 「それは、実が入ってねぇからだ。だから中ががらんどうなのさ」 「実?」 「おまえ自身に、まだ中身がないんだろうさ。それは、自分で分かるだろ?」  あああ、なるほど。  爺ちゃんの言葉が、すっと空っぽの胸に落ちた。 「小説だの映画だのは、その人間の経験とか能力で思うところが変わるからな。そいつ自身に実が 入ってりゃあ、得るものもあるだろう。だが、空っぽなまんまでは、本当には生かせないんだろう よ」 「確かに、俺にはなんもない」 「それでいいさ、まだ16なんだからな。オレだって、お前くらいの時分にゃ、そんなモンだった ぜ」  時が、全てを解決してくれる? 「お前がこれまで経験してきたことだって、無駄じゃあねぇ。お前がもっと年をとって、経験を積 んで、自分自身に水をやれば、それまでの経験は養分になってくれるもんだ」  そう言って爺ちゃんは、ヘソの辺りをさすった。  爺ちゃんの腹には、大きな傷跡がある。  戦時中、銃で撃たれた傷。そしてその消毒のために焼いた火傷のあと。ぼくは子供の頃、それを 見て大泣きした。怖くて怖くて、仕方がなかった。  そんなぼくを、爺ちゃんは笑って、見ていたのだ。  その笑顔の意味を考えると、今でも胸が詰まる。 「まあ、な。どんなに経験しようが、成長しようが……人はいずれ死ぬ」  …死。  どう見ても死にそうにない爺ちゃんも、ほぼ確実に、ぼくより先に死ぬ。  それが死だ。決して逃れられない、この世に産声を上げた瞬間から定められている不文律。  圧倒的な質量。リアル。 「生きてて面白かろうが、つまらなかろうが、どっちにせよいつかは終わりが来る。じゃあ、終わ るまでにどうしたい?」  爺ちゃんは、ぼくに問うた。 「…うーん……」  すぐに答えられる気は、残念ながらしなかった。  爺ちゃんはぼくのその様子を見て、 「ははは! まあ、そう考えるな。まずはメシ食え、メシ」 「うん」  多分、この疑問は、爺ちゃんですら答えが出せないままここまで来たのではないだろうか。いや、 断片的には出していたのかもしれない。断片的にしか答えの出せないような、スッキリしない疑問 なのかも。  それなら、仕方がない。  ぼくは箸を持ち、サバの味噌煮をほぐして掴んだ。  口に入れた。 「しかし、美和子ちゃん帰ってこないな」  “美和子ちゃん”とは、ぼくの母さんのことだ。30代後半の女にちゃんはどうかと思うが。 「また、隣の奥さんと話しこんでるんじゃない? ほとんど毎日そうじゃん」 「ああ、そうか」  爺ちゃんはまた、腹をさすって言った。 「この年になると、忘れっぽくて困るんだ」  次の日、瀧川ハルコに電話しなかった。  元々、昨日電話したことそれ自体がレアケースだったのだ。  それに、する必要もない。 「おはよう」  さり気なく、ぼくは言った。 「あ、おはよう〜。昨日休んだよね、どうしたん?」  ハルコは、朝だってのに笑顔で言った。  本当に明るい、元気なコだと思う。 「いや、ちょっと調子悪くてさ、心の」 「心の!? あはは、それ分かるわー」 「分かる?」 「分かる分かるー。もしかして、あたしのことただ明るいだけの女だと思ってる?」  はい。 「人間って多分ね、そうでもないんだよ」 「…だよなあ。そりゃそうだ」  ただ幸せなだけで生きていられる人間なんて、いない。  そんなこと、分かってたはずじゃなかったか? 「実際、そう笑ってられることばっかじゃなくってさ……言わないけどね」  聞きたい。 「あーあ。どっかに、あたしのグチ聞いてくれるやさしい人いないかなあ。いつも、聞く側なんだ よねえ」 ――終わるまでにどうしたい?  …爺ちゃんの言葉を、思いだした。  爺ちゃん。 「…瀧川」 「ん?」 「…俺が……」  ぼく、とりあえず一つ見つけた。  やりたいこと。 「俺が聞き役に、なってもいいよ」  瀧川は、笑ってくれた。