K市並木  十月一日付の転勤が決まり、それからしばらく康司の日々は激流に呑まれた。転勤を言い渡され たのは九月二十日で無理だろこんなのと酒の席で愚痴っていたが、康司の言葉に諸先輩方の同意は なかった。  余裕だろ十日も猶予あんだし。俺なんて赴任三日前に大阪行けって言われたんだぞ! そうだ そうだ、お前はアマイ! 十日もありゃあ引継ぎもアパート探しも引越し会社探しも何でも出来る だろ。そんなんだから最近の若いのは根性がないって言われんだ!  そうは申しますが先輩方。俺初めてなんですが。ただでさえ今年から役付になってヒィヒィ 言っていた康司は先輩方の予想外の厳しさに社会で生きる辛さをまた少し知った気がした。  まぁ、そうヘコむなよ。転勤もそんなに悪くねぇぞ。  もうお勘定、という段になって、ようやく罵詈雑言の嵐から解き放たれ、ぽつぽつと励ましを 戴けるようになっていた。ああ、大人だなあ、と思った。どんなに責めても最後にちゃんと フォローしてくれる辺りが。  意外と楽しいことが待ってるかもしれない。愚痴っててもしょうがねぇし、もういっそそう 信じてみようか。 *  ようやく落ち着いたのは、十月も二週目に入ってからだった。  一週目は土日も休む暇なく出勤して前任者の残務整理に追われた。引継ぎで一度会っただけだが、 それでも十分過ぎるほどにいい加減さは伝わってきた。――こりゃ暫くは仕事に集中だな。単に量 が溜まってるだけじゃなく進め方もかなり、いやめちゃくちゃ怪しい。片付けつつ流れも整理しな いと、後で絶対しんどくなる。もう目に見えてる。容易に想像がつく。  そうなりたくないので、康司は死ぬ三歩手前くらいまでは自分を追い込んでおいた。  そして、二週目の土曜日を迎えた。  K市並木は市の中心街としての顔と、閑静な住宅街としての顔を同時に備えていた。住宅街から 少し歩くと交通量の多い通りに出る。通り沿いには大型スーパーやショッピングモール、有名店舗 や各種チェーン店が軒を連ねていて、それなりの活気を感じさせる。  康司は歩道を渡って、イトーヨーカドーをスルーして狭い通路の中に入った。  車の多い通りは賑やかでも、内側は静かだ。  小さな川沿いを康司は歩いた。ふと空を見上げる。太陽に薄い雲が架かり陽射しは穏やかである。 たまに風も吹いて心地良く街を探検出来そうだ。  探検、などと子供っぽい単語が浮かび誰もいないのに恥ずかしくなる。自分がこんなに街歩きが 好きだなんて知らなかった。探検なんて言葉が隙を見せると思い浮かんでしまうくらい、心躍って いることを認めざるを得ない自分がそれほど嫌ではなかったことにも驚いた。 *  片側二車線の内環状線もまた、土曜日だけにしっかり混んでいた。  道路の向かいに回転寿司屋があった。美味そうに見えたが、まだ昼食には時間が早い。引越しに よる財布のダメージが大きかったのも、全皿百円ではないらしい回転寿司屋から足を遠のかせた。  少し歩くとコンビニがあり、その少し先にもまたコンビニがあった。そして双方のコンビニの 中間地点辺りにジュースの自動販売機が設置されていた。  康司は自販機の前で立ち止まった。  なんでコンビニとコンビニの間に自販機があるんだろう? どっちとも百メートルも離れてない のに。誰も使わないだろ、こんなとこにある自販機。  康司は自販機をまじまじと眺めた。ウインドウを見る限り売っている商品は至って普通だ。  ただ一箇所だけが飛びぬけていた。ウインドウの内側には等間隔で商品のサンプルが並んでいる が、一箇所だけぽっかりと間が空いていた。空いているのに下部のボタンは薄く光っている。  あるべきところにあるべきものがないのはとても目立つ。  オイオイ、なんかこれあれに。――『今日のラッキーアイテム』じゃん。昔うちの近くの自販機 にあったわ。  何が売っているのか、妙に気になった。百二十円を入れて――やっぱり青く光った。後は青く 光るこのボタンを押しさえすれば、恐らく何かしらが姿を現す。『今日のラッキーアイテム』も 空白の自販機も何が出るか分からないという一点のみ共通している。 「買ってみますか。それを!」  突然背後から女の声がして、康司は驚きのあまり空白のボタンを押してしまった。 「買いましたね。それを!」 「…買いましたけど」  ガタンと音がして商品が落ちてきたのは分かっていたが、康司は女から目を離す気にはなれな かった。康司の気も知らず、女は商品を取り出した。 「あ、今クールは割かしまともなのが入ってますね〜。ガラナサイダーだったら何とか飲める もん」  そう言って無邪気に笑う女の顔は康司の肩の位置にあり、女が康司を見る際は自然と上目遣い になる。  それが異常に可愛く見えた。 「それ飲みたい?」  百円で売ってやるよと康司は続けた。女は笑った。 「あはは! ビミョーですねそれ」 「いや、タダっつうのもちょっと……サービスだよサービス」  手数料。二十円でドキドキを買った。好奇心をざわつかせてくれたお礼。  そして二十円でちょっとした恩を売る。 「サービスする代わりに、――いや代わりってのもなんかヘンだな……」 「ん?」  不思議そうな顔をしている。うわこれやばい。くる。 「…メシいかねえ?」  まだ昼食には早い。しかし先程の回転寿司屋の駐車場には続々と車が入ってきていた。それでも、 今ならまだ並ばずに食べられるだろう。  たった五分前に出会った女をメシに誘うのはおかしいだろうか。少なくとも康司はそんな思い 切った行動を起こしたことはなかった。それでも自然と飯に誘えた。誘わなきゃいけないような 気がした。  今ここでこの子と少しでも親しくなっておかないと、もう二度とこの街で楽しいことが起こら ないように思えてならなかったのだ。 「まだ早い気がするけど……」  ああ、ダメだ。 「…お腹空いてるからいいです!」  いいです?  いいです、ってのは肯定的な発言だよな? 文脈から読み取って。 「…あ、じゃあ、そっちの回転寿司屋行く? なんか美味そうだったし。美味いんでしょ?」 「いや〜行ったことないので分からないですゴメンナサイ! でも見た感じ美味しそうなんじゃ ないでしょうか!?」  向かい側へ渡る陸橋階段を上りながら康司は思わず吹き出しそうになる。いいテンションだ。 好きなテンションだ。彼女も好奇心が強いらしく、行ったことのない店に行ける喜びが前面に 出ていて康司からは微笑ましかった。 「だよね、美味そうだ。でも、ホントありがとう。嬉しいわ〜。いや良い子だ」  ――言った後、ハッとした。  こういう時に限ってクセが出るっつうのもなんか。  康司には二人の妹がいた。どちらも甘えん坊かつ泣き虫で、親からは怒られることが多かった。 池を作らんばかりの勢いで大泣きする妹二人をあやすのは六つ年上の兄康司の仕事で、泣き止ます ためとにかく何でもいいのでフォローしまくり、池の増水を食い止めたら最後に「良い子だね」で 締めていた。  そんなクセが好きになるかもしれない女の子の真ん前で飛び出るとはなんたる因果。彼女も どこか唖然とした顔になっている。  やってしまった。これは終わったかもしれない。 「…良い子だ、なんて言われたの、初めてかもしれない!」  は? しかし康司の疑問符は掻き消された。  陸橋の中心で怒涛の勢い。話の洪水。 「あたしねー長女なんですよ! 弟二人いて――ヤツらがとにかくヤンチャでいっつも物壊したり 他の子供泣かしたりしててその度になんでか怒られるのあたしだったんですよ! 今考えると おかしいんですけどあの時はあたしが悪いんですって泣いて謝ってたんです! 中学に上がって からも男子からは母ちゃん呼ばわりされ女子からもお母さん呼ばわりされ! 皆人の顔見れば しっかりしてるって! だから、――良い子だなんて言われたこと一度もないんですよ」  分かった気がした。 「本当に良い子だよ」  二度目。今度は強調。 「…ヤバ」  そう呟くと女はどんどん早足に。それもまた丸分かりで微笑ましい。  嬉しすぎると泣きたくなる気持はよく分かった。なぜなら康司もそうだから。  財布の中身などもう気にする必要はなかった。この後給料日まで毎日パンで過ごせばいいだけで。  先輩方。意外どころじゃない、スゲー良い街ですよ。 *  二人は回転寿司屋で色々話をした。  女の名前がアイだということもアイが十月一日採用で先月の終わりにこのK市へ引っ越してきた こともその時聴いた。  しかし康司にはどうしても携帯番号及びメールアドレスが訊けなかった。女性へそれを訊くこと は康司にとって拷問で、しかしなぜ訊けないのか自分でも理由が分からないのである。  だが、そんなことはどうでもよくなるオチが最後に付いた。  康司は目を丸くした。  あ、あたしここなんで。――彼女が立ち止まったアパートは康司のアパートだった。  K市は"田舎の都会"だ。F県は断然田舎の部類に入るが、その中の街とはいえ街なのである。 アパートなんて数え切れないほどある。それなのにこの子が同じアパートってこれどう考えたって 何かの間違いだろ。じゃなきゃ誰かが仕掛けた罠だ。誰が? 誰かが。  混乱進行形の康司を見て、アイも察する。 「え、もしかして康司さんも?」 「…いや、何も言えねぇわ」 「あはは、それ既にちょっと死んでる言葉ですよ!」  言って、アイは身軽そうに階段を上って二階のアイから見て右奥の部屋へ向かった。立ちすくん でいる康司を今日初めて見下ろす形になった。 「じゃ、また!」 「うん、また……」  また。  また会える。  これなら別に携帯番号もアドレスもいらねぇな――そう康司は思った。