いきるということ  相沢依子(あいざわ・よりこ)は、携帯メールを打っていた。  そのお相手は、一つ下の妹、成美(なるみ)。  依子は、含み笑いを浮かべながら、楽しそうに打っていた。  今日観た映画の感想。  部活のこと。  志望大学のこと、勉強のこと。  高校最後の思い出のこと。  様々な、心からの声。  成美からのそれを受け取ると、依子はいつも笑顔で溢れてしまう。  依子が中学一年生になった時、小学六年生の成美は人生最悪の時期を迎えた。 「…なるちゃん」  玄関の前にいた依子は、その時言葉を失った。  学校帰りの、みすぼらしく汚れた妹の姿。 「どうしたの!? そんな泥だらけで、一体何があったの」 「なんでもないよ、お姉ちゃん」  それだけ言って、成美はすぐに家に入ってしまう。 「……」  依子は、思考の糸を体中に張り巡らせていた。脳だけでは足りない、手、足、背中――あらゆる ところに潜伏している記憶の断片を手繰り寄せなければならない、と。  記憶は、掌から復活した。  依子には確信があった。  なるちゃん――成美を、こんな目にあわせたのは、あの連中以外にあり得ない。  元々、性質の悪い子供が多く集まる小学校だった。  運が悪いのか、それとも必然だったのか――その中でも取り分け性質の悪い連中が、同じクラス の成美に目をつけたのだ。  成美が二年生の頃、連中は全員――合わせて六名――で彼女を取り囲んだ。  にたにた、子供らしくない類の意地の悪い笑顔を伴って、十二の瞳が成美の二つの瞳を襲った。 小学二年生の少女が、そんな圧迫感に耐えられる筈もなく、すぐに泣き出してしまった。それを見 て、今度は声を出して笑う連中。不快感を増幅させるその声、成美は嘔吐する寸前の精神状態だっ た。  それを、依子が救ったのだ。  依子とて、一つ年上とはいえ、あまり攻撃的な性格ではない。ないが、それを「妹を助けたい」 という強い、折れない気持ちで精神面ではカバーしていた。肉体的には、背後に控えていた担任の 教師がカバーしていたのだ。  成美は、姉の姿を認めた瞬間、連中の包囲網を押し退けて、その胸に飛び込んだ。そして声を上 げて大泣きした。  震えていた、二人とも。互いに相手の震えが伝わる。それは、気持ちをも揺らした。 「お、ねえちゃ……怖かった……!!」 「大丈夫、お姉ちゃんも、怖いよ。なるちゃん、一緒に怖がろう……ね」  いつの間にか、依子も泣いていた――  あれから、連中は成美には手を出さないでいた。依子も、その存在を忘れかけていた(基本的に 人間は、嫌な記憶を奥に押し込めるよう作られている)。  ほとぼりが冷めたとでも?  依子は怒りに打ち震えた。  中学に上がり、成美を身近で見られなくなったことは確かだ。  あの時助けてくれた担任の先生も、去年異動してしまった。  成程、時は熟したのか。 「…成美を、なんだと思ってるんだ」  依子はそれだけ呟き、遅れて家に入った。  夕食時、成美は「明らかに何かあった」と分かる態度で食事を黙々ととっていた。  母は、長年の経験からか、敢えて成美に触れなかった。勿論、依子にはそんな豊富な経験はなか った。 「あいつら?」  依子はなるたけ自然に努めて言った。  成美の肩がビクと微動した。 「あいつらが、また?」 「…邪魔者は、消えた、って……!」  茶碗に突き立てた箸の、御飯に埋まって見えない先の方を見ようとしているような、成美の視線。 「あの人達、また、私を着けて来て、取り囲んで、そして、田んぼに向かって全員で押して……そ して、嗤った……『明日は何をしてやろうか、もう邪魔者はいない』って……」  依子の目つきが、鋭くなる。 「…なるちゃん、明日は学校休みなよ」 「え……」 「あたしも休む。あいつら、許せない。徹底的に、思い知らせてやる」  依子はすっかり、怖い子になっていた。成美のことになると、様子が一変する。 「ダメだ。二人とも、休んじゃダメだよ」  母が、ふいにきっぱりと言った。 「どうして!? だってなるちゃんが怖い目にあわされるのが目に見えてるんだよ! あたしが助 けなきゃ、優しいいい子ななるちゃんが、酷い目にあう道理がどこにあるっていうのよ!!」 「成美、御飯要らないなら、片付けなさい」  母は成美の方を向き、目を見て言った。成美は「部屋にいろ」と、母の目に言われた気がしてい た。 「助けるな……って、なに、どういうこと? お母さん、訳分からないよ」 「言葉通りの意味だよ、依子」  食後の日本茶、湯気が立つ中、二人はテーブル越しに一対一で対峙していた。 「あの子のためにならないのさ」 「よく分からないな……助けるのが、いけないこと? 一日くらい学校休んだからって、なに?  あたしは自分でいうのもなんだけど、勉強できるし、なるちゃんだってそうだよ。あの子は、優し くて、マジメで、頭もいいし、ちょっと人見知りするけど、でもとってもいい子で……」  依子は、テーブルに両肘をつけて、両の掌で顔を覆った。 「…どうして、そういう子が嫌な目にあわなくちゃいけないんだろう」 「世の中ってのは、そういう風に出来てるの。悲しいけどね。あんたもあの子も、箱庭を出て、社 会に放り出されれば、嫌でも思い知らされるさ。社会ってのは、声のデカイヤツがおいしい思いを するんだ、ってことが、さ」 「……」 「だから」  母は、語気を強めて言った。 「箱庭にいられる内に、気付かなくちゃいけない。あの子は寧ろ、運がいいのかもしれない」 「…運がいい?」 「気付けるチャンスをもらった、ということ。家族は家族として、不変なものだけれど、社会に出 たら、皆独りぼっちだ。あんたは、職場でもあの子を助ける気かい?」  依子は、答えに窮した。 「だから――あの子は、自分の力で、この状況を突破しなくちゃならない。あんたやあたしがもし 助けたら、今後あの子は『自立』できないかもしれない……」  …それでも、あたしは。  依子は、心の中で叫んだ。  成美を見捨てられない!  二人は同じ部屋だった。二段ベッド、依子が下で、成美が上で眠った。  成美が何をしているのか、依子からは見えなかったが、依子は本を読んでいた。  きっと、マジメな成美は勉強をしている。宿題はもう終わらせているだろう。自主勉強である。  あんなことがあっても、マジメでいい子ななるちゃんは黙々と……  依子は、少し漏れてきた涙を、枕で拭った。 「なるちゃん、もう電気消していいかな」 「うん」  途端に、部屋は闇に占められた。  それから数十分、二人の間に会話はなかった。  しかし、ある時、依子が口を開いた。 「なるちゃん、起きてる?」  上で小さく、衣服の擦れる音がした。起きている。 「なるちゃん、あたしね、なるちゃんを助けられないんだ。ごめん……」  また、少し擦れた。 「だけど、もし、もっと酷くなったら、絶対に、教えてね。そのときは、お母さんが何と言おう と、絶対に、絶対に――」  擦れに、嗚咽が混じった。  成美が、泣いていた。  それを察した時、依子は即座に梯子に手足を掛け、布団に顔を押し当てて震え泣いていた成美を 思い切り抱いた。 「強くなれなんて、強制されてさ、嫌だよね……ごめん、守れなくて……!」 「ごめん、怖くて、泣いちゃったけど……でも、大丈夫、お姉ちゃん、大丈夫だから……いつまで も……」  成美は、依子の背を掴む腕に力を込めて、決意を込めるように言った。 「私、がんばるから」 「…うん」  依子は思った。  これ以上はもう、言葉はいらない。 「なるちゃん、いい子だね。優しくて、マジメで、ちょっと人見知りするけど……強い子」  結果として、成美は打ち克った。  今は、楽しく高校生活最後の一年間を楽しんでいるようである。  もう、姉に守られている弱い妹の姿は、どこにもない。  依子は、返信メールの文末を、こう締め括った。 「優しくて強いなるちゃんならもう、どこででも生きていけるね」  数分後、返ってきたメール―― 「アラスカ、いつか一緒に行こう!」  依子は「さすがにそれはしんどいです」というような内容の返信メールを即座に作成しだした。