龍よ、躍れ  体がすっぽりと包みこまれる感覚になる。  その位大きな満月が、空に浮かんでいる。  僕はあの日、家のガレージの窓からそれを眺めていた。 「やあ、いい月夜だね」  窓の外から、とても静かで、どこか重い声がして、僕は窓を開け、下を見た。  そこには、髪の長い男の人がいた。夜中遅くだけれど、月の明るさは、顔も見えるほどだ。  男の僕から見ても美しい顔の人だったが、見覚えは全くなかった。 「…あなたは誰です?」 「そんなことは些細な問題じゃないか。余りにこの月と躍りが素晴らしいから、座ってゆっくり見 物しようと思ってね。ここに座っているのはたまたまさ」  僕は、彼を警戒しつつも、やはり、月から目は離せなかった。  月には、魔力があるとどこかで聞いたが、それは恐らくそうなのだろう、と、この月を見れば納 得する他ない。  月には、魔力があるのだ。 「躍りって?」 「…月を御覧なさい」 「見てるよ」 「もっと、心を研ぎ澄まして」 「そう言われても……」 「月を見、そして、それだけを想うのです。強く、強く。そうすれば、秘匿された存在が、その姿 を現す」  ――それだけを、想う――  ――月。  ――奥。  ――なんだ?  ――透けて――  ――なんだ? あれは。 「見えましたか? 本当の姿が……」 「…これは……翼の生えた、兎?」 「あなたには、そう見えた?」 「…あなたには?」 「私には、龍の躍りが見える」  知らなかった――月の奥に、あんなものがいるだなんて。  見る者によって、かたちが変わる?  僕には、おかしな兎に見える。  彼は、龍を見ているのか。  なら――これは、生物じゃない?  魔力?  月が人間を惑わせるための、ちょっとした悪戯なのだろうか。それとも、何か他に―― 「――いいではないか」  彼は、ぽつりと言った。 「私達は、ただ見ていればよいのでしょう。何も考えず、ただ、夜だけの舞踏に心を委ねること。 それが、恐らくは『彼ら』の望み……」  彼の言葉を、今度は何も疑わなかった。  なぜなら、僕も、それが一番いいと思っていたから。  言葉はいらない。  思いもいらない。  ただ――見ていればいい。  見るしかない。  見る以外に、何も無い。  僕は、魔力に漬かっていたかった。  月の、心地いい酩酊感に。  体の震えと共に、朝が目に飛び込んできた。  月を見ながら、眠ってしまっていたらしい。窓も開いたまま――  ――彼は?  僕は、窓から身を乗り出して、下を見た。  そこには、一枚の鱗が落ちていた。  それから、何度かガレージで月を見た。  しかし、彼と会うことは、それから二度と無かった。  そして、ある時から、僕は月の奥に「秘匿された存在」を見ることは出来なくなっていた。    大学二年、旅行途中の僕は、高速バスに乗っていた。  そして、ある峠を走行中――バスは、コーナーを曲がりきれず、崖から転落した。  ――そこから、ここに来るまでの記憶は、何か大きな力で遮断されたかのようにない。  暫しの闇が晴れ、目にしたのは、あの時の兎だった。  跨っていたのは、龍。  見上げると、浮かんでいたのは、飲み込まれそうに大きな月だった。  僕は、なんだか懐かしい気分だった。  彼はいないだろうか? 僕は周りを見回した。  彼はいなかった。  だが、そんなことは、些細なものだった。  舞う兎と、躍る龍。  龍は進む。月の中心部へ向かって。  眩い光に吸い込まれるように、僕は――