ある新婚夫婦の休日の一例  夫は目を覚まして驚いた。午前八時には起き、高原のほうにドライブに行く予定が、時計を見た らもう昼過ぎだったのである。起き抜けに心臓を痛くした夫だったが、妻はもう既に横にはおらず。  キッチンから音がした。明らかに野菜を炒めている。  午後二時。予定より遥かに遅れて、夫婦は家を出た。車に乗り込む。  夫は未だに恨み言を発していた。 「なんですぐに起こしてくれなかったんだよ……十一時に起きたんならさ……」  不貞腐れた顔でハンドルを切る夫。 「いつも遅くまで働いてるから」  その優しさはありがたいけどさ――夫は思う。 「せっかく見ごろだっていうから、行きたかったのになー」  一緒に……と。 「別にいーじゃん。スーパーいこ、スーパー」 「なんか買いたいものあんのか」 「いや〜、作ってみたい料理あんだわ」 「さっき食ったばっかりなのに、もう夕食のこと考えてんのか?」 「その料理、ちょっとばかし時間と手間がかかりそうでね」  妻の目は燃えていた。それほどまでに妻のやる気を呼び起こす料理なのだろう。 「…じゃあ、行くかー」  イマイチやる気なさげに、夫は警察署の十字路を右折した。 「…んー?」  妻は顎に手を当てて、不思議そうな顔をしていた。 「どうした?」 「いやさ、この店、ゴボウがないんだよ」 「ゴボウなんて、スーパーならどこにでもあんだろ。見落としてるんじゃないか?」 「だよね。でもさ、ホントないんだよ。仕入れ担当の人がゴボウ嫌いなのかな」  そう言って、妻は緑の帽子を被った店員を睨んだ。 「そんなにゴボウが必要なの? なくてもいいんじゃねえ」 「フザケタことを言っちゃイカン! あの料理には、ゴボウが絶対に必要なんだよ……!」 「…分かったから、ジャガイモから手を離せ、な?」  ジャガイモは、今にも妻の手によって砕けてしまいそうだった。  とりあえずゴボウ以外の食材を買って、二人は車へと戻った。 「別の店行くか」 「いや……うん」  妻は、悩んでから納得したように頷いた。 「バッセン行こう!」 「はぁ!?」  妻の言う"バッセン"とは、"バッティングセンター"のことである。妻は小中高とソフトボールを やっていた過去があった。  夫は当時、同じ高校だった妻の勇姿を見たことがある。妻は一番ショートの小兵タイプだったが、 その試合は猛打賞の大活躍した。夫が妻に惚れたのはその時だったが、そのことは今でも言わずに いた。  だからこそ、妻がバッティングセンターに行きたいと言うのは筋が通る話なのだ。だがしかし、 何故今なのか。 「時間と手間が掛かる料理じゃなかったのかよ……?」 「ゴボウがないって分かって、私の心の炎が鎮火してしまった」 「うわあ……ひどい二十三歳」 「多分三十過ぎてもこのままだね」 「はぁ……行こう、バッセン」 「うわーい! ありがとうダーリン!」  お前そんな呼び方一回もしたことねぇだろ――などと思いながらも、何故だか悪い気はしなかっ た。  妻のバッティングは錆び付いてはいなかった。百二十`設定の球を真芯で捉え、次々と鋭いライ ナーを放っていく。 「…このチビの細っこい体のどこに、こんな力があるんだろな」  ガラス越しに、夫が呟いた。そして、妻の印象が六年前と全く変わっていないことに気が付いた。 当時も妻を見て、同じような印象を抱いていたのだ。  そしてその姿を愛しく思う気持も、当時と全く変わらなかった。  変わっていないからこそ、今も好きでいられるのだろうか――もしも、妻が変わってしまったら、 愛しく思えなくなってしまうのだろうか。そんなことを考えていたら、二十球が終わった。 「いやあ、いい調子だった」  妻はゲージから出てくるなり満ち足りた様子で言った。そして店員から、大きなぬいぐるみをも らった。 「なに、それ?」 「ホームランの景品だよ! あの上のしるしに当てたでしょ」  夫は、ぬいぐるみですっかり顔が隠されている妻の指差した先を見た。白い球体に赤い縫い目が 入っている――野球のボールを模した看板が、確かに取り付けられていた。 「まさか、見てなかったとか?」 「イヤ、見てたよ、見てた!」  そう、見ていた。悩んでいたから、身を入れて見ていなかっただけで――  午後五時。  それから妻は何度かゲージに入り、夫も八十`のゲージやストラックアウトで数回プレイした。 バッセンを出ると、もう夕陽が目に痛い時間になっていた。 「満足した」 「そりゃ、あんだけ打てばな。しかしお前……」  夫は後部座席を見た。そこには妻の"戦利品"が並んでいた。 「ホームラン賞って、そんな何個も取れるもんなのか?」 「今日は調子が良かったよ。毎週ここに通ってる成果がようやく出てきたっぽい」 「毎週!?」 「越してきてからね」  妻が越してきたのは――結婚し、夫のアパートに住むようになったのは――半年前のことだった。 「ここ安いからいいんだよね。実家の近くのバッセンはどこも高かったな!」 「…いや、毎週って来すぎじゃ……いいけどさ、別にさ」  夫のボヤキを聞いて、妻が反応した。 「ん、別に良くなさそうな感じだね、その反応」 「いやいいけど……ホントに」  夫はしかめっ面のままサイドブレーキを踏んで車を走らせる。 「来ないほうがいい? あなたが行くなって言うなら、私もう来ないよ」  ――変わらなくていい。お前はそのままでいい―― 「また来よう、こうやって休みの日に」  夫の言葉を、妻は正面を見たまま聞いていた。 「それでいいんだ? 変わって欲しいなら、変わろうと思ったんだけどな〜」 「いいよ、そのまんまで。昔と変わらないあんたが可愛いと思うよ」 「可愛いだなんて、照れるぜ」  全く照れがなさそうに、妻が言った。 「ま、でも――」  妻は、夫のハンドルから空いた左手に触れた。 「これでしばらく打ち止めにするつもりだったの」 「…なんで?」 「まー、そのうち教えてやる」 「えー、なんだよ?」 「ヒント〜。悪いことではない」 「もうちょいヒント!」 「もっと? え〜……"あ"で始まる言葉だ!」 「あ? あ、あ……」  夫は考え込みすぎて、青信号に変わってもすぐにアクセルを踏み込めなかった。  午後七時半。 「あ?」  出てきた料理を見て、夫は驚愕した。 「手間掛かる料理の成れの果てが……牛丼?」 「不本意っちゃ不本意だけどね……とりあえず、ゴボウ以外の食材で出来る限りの物は作ったつも りだよ」 「これでゴボウがあったら、一体どんな料理になってたんだ!?」  夫は頭を抱えてしまった。一日に二つの謎を抱えてしまったのだから、無理もない。 「美味いけど、美味いけど……」 「美味いならいいじゃん」  夫は、頭を抱えながら完食した。  午後十一時五十五分。  灯りが消えた部屋。二人はベッドの中にいた。妻は目をつむっていたが、夫の目は光っていた。 「起きてる?」 「そんなすぐ寝れないよ」 「メシの途中も、フロの間もずっと考えてたんだよ」 「料理なら来週完全版をお見せするよ」 「いやそっちじゃなく、"あ"の」 「ああ、"あ"ね」  夫は、布団の中で妻のお腹に両手を回した。 「そんで、なんとなく分かった」 「うん、それ多分正解」  夫からは見えないが、妻は微笑んでいる。 「結婚って、人生のターニングポイントだと思ってた。結婚して……子供が出来て、親になって年 食って――そのうちに、自分が別の人間になってくんじゃねぇかって気がしてた」 「ならないならない」  妻はクスクス笑って言った。 「あなたも私も変わらないよ、きっとね」 「うん、でも、もし、変わったとしても」  ――それでも別に構わない。 「…もう寝るか」 「うん、寝よう」  そうして一日が終わった。