チルドレンズ 後編 「もうすぐ名古屋だね」  高崎が、嬉しそうに言った。よくもまあ、この状況でそんな顔できるもんだ……感心するよ。 「…博多まで、あと三時間くらいか? 九州、行ったことねぇなあ……」 「楽しみじゃない? あたしも、東京より先に行ったことないな」 「あー、俺もそうだった。楽しみ……か。まあ、確かに」  俺も高崎くらい心の余裕を持たないといかんよな。この期に及んでウジウジ悩んでてもしょうが ねぇ。これは旅行と考えなくちゃ。逃避行という名の旅行だよ――  時間は遡って、今日の朝六時。 「遠くへ行こうよ」  は? いきなり何を言い出すんだ? 「遠くって、どこへだよォ……ねむい……大体、ちょっといきなりすぎね? 昨日行ってくれりゃ 良かったのに」 「…ゴメンね。うん、非常識だよね、分かってる。だけど、しょうがないの……」  憂い顔で下を向き、高崎はぼそぼそとしゃべっている。何かあったのか、と思った。 「…なんかあった?」 「…昨日、綾瀬くんのお父さんから電話があったの」  …親父から? 「その電話に、うちのお父さんが出て、最初は普通だったんだけど、どんどん顔が怖くなってきて、 怒ってる感じの声出して、ガチャン! って電話切って――ほっぺたぶたれて、部屋に入れられて、 夏休みの間、外出禁止だ――って」  何を言ったんだ、あいつは?  …あいつ、俺と高崎がしたことを、そのまま高崎の親にチクりやがったのか? 「そう、そんな感じ……」  俺の顔を見て、高崎は言った。 「そんな感じの、怖い顔で」 「…ゴメン。あのクソ親父」  俺は努めて表情を柔らかくして、高崎の肩を掴んだ。 「外出禁止なのに、出てきたのか?」 「この時間なら、二人とも起きてこないから……休みだし……」 「謝りに行こう」 「いや」 「俺も一緒に謝るから。ちゃんと謝れば、きっと許してもらえるよ」 「…綾瀬くんは分かってない」 「なにを?」 「うちのお父さんは、許してなんてくれないわ! だから、だから……」  高崎は、手持ちのバッグをまさぐった。見ると、いくつもバッグを持っている。手持ちを一つ、 ショルダー式のを二つ。やけに重装備だ。重くないか。 「…これだけあれば、どこへでも行けるでしょ?」  高崎が取り出したのは、札束だった。 「お前、これ……?」 「五十万あるのよ。お年玉とかお盆のお小遣い、使わず貯めてたの」 「…ああ」  良かった。なんて安心するような場面でもないかもしれないけど。親の金じゃないんだな。ちょ っと心配しちまった。ゴメンな、高崎。 「遠くに行こうよ」  絶対に、謝りに行った方がいい。ここで逃げても、状況は悪化するだけだ。そんなことは分かっ ている。それでも、高崎を止められないなら、そのまま一人で行かせるわけにはいかない。  たとえどんなことになっても、俺が高崎を守ってやる。守ってやらなきゃいけないんだ。 「あ。そうそう」  高崎はバッグを全部下ろして、ニンマリと俺を見た。なんだ、急に? 「昨日のお返しをしようと思って」 「昨日のお返し? 俺、なんかしたっでぇぇ!!」  高崎の往復ビンタが俺の頬を強襲した。  車内アナウンスが、もうじき名古屋着くぞって言ってる。 「てんむすとかひつまぶしって結構聞くよね。食べてみたいなー」 「ここで降りるわけにはいかねえべ。博多までのチケット買ってるんだし」 「あー、方言禁止ー! イナカモノって思われるぅ」 「い、田舎者だろ実際?」 「ダメなのー」  おいおい、最近は方言を積極的に使おうって風潮だろ? 恥ずかしがることはないんだぜ? っ てーか、ホント、元気だなあ。女の子は強―― 「…オイ! 待て!!」  ヤバイ、ヤバイ! 「どうしたの?」 「バッグ!」 「えっ――あっ!!」  荷物が多かったから置き切れなくて、手持ちバッグを通路側に置いていた。その中には高崎の全 財産が入っていた。それを、たった今盗られた!  俺はポンと立ち上がって、盗んだ犯人を追い掛けた。走って追い掛けたかったが、帰省時期だか らか、通路に荷物が一杯はみ出ていて、邪魔だった。  すでに停車している。名古屋から乗り込む乗客達も乗車している。人に紛れて、身動きが取れな い。 「待て、待てっ……!!」  そして、新幹線は再び動き出した……犯人は新幹線から降り、俺達は旅費を失った。  絶望感を共有したまま、俺達は、京都駅で降りた。  駅から出て、東本願寺まで歩いた。重い足取りでも、ほんの5分で辿り着いた。そういえば、今 日は夏休み中の上に、土曜日だった。寺の近くは人でごった返していて、外国人も多かった。タク シーの数も異様で、ああ、都会だなあ、観光地だなあって、なんとなく思った。  …どうしよう。高崎は、ずっと泣きどおしだ。  俺だって泣きたいさ。だけど、泣けないんだ。泣いちゃいけない。涙は何も解決しない。 「とりあえず、少し休もう」  高崎の肩を抱いて、境内の左の方に設置されている石造の腰掛けまで連れて行った。先に黒猫が 座っていたけれど、少しどいてもらった。その代わりにパンを千切ってくれてやった。 「どうしよう、どうしよう……帰れないよ、もう……」 「…お金は、あれで全部なの?」 「うん、もう全部下ろしちゃった……財布はあるけど、4,000円しか……」  俺も、5,000円しか持っていない。貯金もない。これが全財産だ。合わせて9,000円か……これじ ゃあ、帰れない。俺達の力じゃ無理だ。俺達の力じゃ――  結局、あいつに頼るしかない。ヤだけど。でも、背に腹は替えられないって奴で。 「そうだ高崎、携帯貸して」 「…どうするの?」 「親父に連絡する。迎えに来てもらおう」 「…福島から、京都まで?」 「それしかないよ」 「…あたしが連絡する。ウチに」 「いや、俺がする」 「どうして? 全部、あたしが悪いのに!」 「外出禁止のところ抜け出して、その上『今京都にいます。迎えに来て』じゃあ、二度と会わせて もらえなくなるかもしれないぞ。ヘタすりゃ転校とかさせられかねない。俺がお前を連れ出したこ とにすりゃいいんだよ。な?」 「それじゃあ、綾瀬くんが悪いことになっちゃう! 絶対、ダメ……」 「…いいの!」  俺は、高崎を抱きしめた。高崎を安心させたいから、こうすべきだと思った。 「一番辛いのは、高崎に会えなくなることだから」 「……」  高崎はもう、何も言わなかった。ただ、高崎の顔が当たっている左肩の部分から感じた生暖かさ が、答えだと思った。高崎の涙が、服に染み込んで、体に染み込んできた。  その暖かさは、俺に勇気を与えてくれる。  高崎は携帯の電源を切っていた。きっと、家から連絡が来ることを恐れていたのだろう。新幹線 の中では、あんなに元気そうだったのに、心の中にはやはり不安を抱えていたのだろう。当然だ。 それを、本気で元気そうだと思ってしまった俺は、まだまだ高崎のことを知らない。  もっと高崎のことを知りたい。もっと、ずっと、一緒にいたい。だから俺は電話を掛ける。 「…もしもし。親父? 今日は競馬場行ってなかったんだ。ふうん……俺? 俺は、今、京都にい るんだ……うん、そう、京都府」 『…なんだって、そんなトコいんだ?』 「ええと、親父には言ってなかったんだけど、前々から計画があってさ。俺金ないから、彼女の金 で新幹線乗ったんだけど……その、金、なくしちゃってさ、全部。だから、帰れないんだ。頼む!  迎えに来てよ……」  さあ、怒鳴れ。罵れ。全部受け止めてやる。悪いのは俺だ。悪いのは、俺だ―― 『いいよ』 「え?」  えらいあっさりだな、オイ。 『ただし、俺は今日仕事だからな。仕事が終わって、それから車で迎えに行く。だから、着くのは 明日の朝だろうな』 「…うん、分かった。ありがとう」  明日の朝、か。それまでは、凌がないといけないな。 「…本当に、ゴメン」 『なあに、いいさ。子供のケツ拭くのは親の役目だしな。それに、冴えねぇ息子にもちっとは男気 があるって分かって、安心もしてるさ』 「男気?」 『彼女庇ってるだろ? それ自体は、いいことさ。男らしくてな――お前にはお前の立場がある。 ただなぁ、俺にも立場があるのさ。お前と彼女の関係は、ちゃんと親御さんに教えてやらにゃなら んかった。お前は俺を恨んでるだろうが、親の務めなんだ。親になれば分かる』 「…恨んでないよ。親父は、ただ為すべきことを為しただけだと思う」 『ほー。言うねえ、十三のガキのくせして』  本音だ。  最初は確かにムカついたけど、でも段々と考えが変わってきていた。気付いてしまった以上、高 崎の親に連絡をする義務が親父には発生する。親父は当然のことをしただけなんだ。 『まあ、明日までに覚悟はしておけ。帰ったら、色々しんどいことあるからな、充彦』 「…うん」  電話を切ろうとしたところで、高崎が言った。 「貸して」  その目に涙はなく、奥の方から光を感じた。高崎は立ち直っている――俺は安心して、携帯を返 した。 「綾瀬くんのお父さん、ゴメンなさい。あたしが軽率な行動を取ったせいで、綾瀬くんにすごい迷 惑をかけちゃって……あたしが悪いんです、ゴメンなさい!」 『…高崎、何さんだい?』 「あっ……佳苗、です」 『佳苗さんか。いい名前をつけてもらったなあ。親御さんには、感謝しないといかんよ』 「…はい」 『明日迎え行くから、それまではそっちで楽しみな。今だけは、何も気にせず遊ぶといい。ウチの 馬鹿をなんで好いてくれてんのかはわかんねぇが……好きな人と一緒にいたいって気持は、止めら んねぇもんだからなぁ』 「…あたし、焦っちゃって。こんなこと、逃げたって、なんにもならないのに。でも、ジッとして いられなかったんです。お父さんから、少しでも離れたくって。もし、綾瀬くんともう会えなくな ったらと思うと、怖かった――」 『うん。泣かなくていい』 「ご、めっ、なさい……ッ! あだっ……」  俺も泣きそうになった。でも、絶対に泣かない。  気持を切り替えて、俺達は滅多に来れない京都で遊んだ。  駅前でレンタサイクルを借りて、狭い地域に密集している様々な施設を回った。楽しい時間はあ っという間に過ぎていって、そして陽が落ちた。  目の前には、ホテル。ツインルーム6,000円。 「高崎、幾ら残ってる?」 「あんまり使ってないから、3,200円あるよ。レンタサイクル安かったし」 「じゃあ、足りるな。ここに泊まろうよ」 「…お泊り?」 「イヤ?」  高崎は、ブンブンと首を振った。 「は〜……なんか、ホッとするね」  しねーよ。  まさか一緒に風呂入る流れになるとは…… 「ぬくいわー」 「…だねー……」  なんて言いながら、見ずにはいられない。  胸の淡いピンク。  お腹の、くびれの辺り。  そして、足の付け根の間に見える、黒。  それらが、お湯をフィルターとして、ぼんやりと目に映る。  俺は、浴槽の向かい側にぐいっと拠って行き、そのままキスをした。少しだけ、した。口を離し てから、高崎はこう言った。 「…いいのかな、こんなことしてて」 「……」 「悪いこと、なんだよね」 「…うん。だけど……」 「…うん」 「したいよ」 「あたしも」  愛撫という言葉を聞いたことがある。意味はよくは知らない。文面から見てとれるのは、「優し く撫でる」ってこと。  なんていうか、気持いいんだけど、柔らかく出来てて触れられると怖い部分ってある。  そういう部分を、俺達は今、お互いに相手に投げ出している。  気持いい。高崎が口で、優しく撫でてくれている。嬉しい。  目の前には、高崎の大事な脆い部分が小さく口を開けて、触れられるのを待っているかのように、 微かに震えている。そこに、ゆっくりと、人差し指を挿入する。傷付けないように、奥まで進ませ る。女の子の暖かさは、男とは全然違う。粘り気のある潤滑油に包まれた指は、あっさりと根本ま で包まれた。  どんどん熱くなってくる。人差し指から伝わって、右手全体が湿っぽくなってくる。  親指で粘液を掬い取って、毛の部分をじょりじょりと擦らせる。こうでもして気を紛らわせてな いと、すぐに出てしまいそうだった。高崎もまた、丁寧に、優しく扱ってくれていた。 「高崎、もういいよ――ヤバイ」 「…出そう?」 「うん、もうヤバイ。入れていい?」 「うん」  高崎は膝立ちになって、俺の上から離れた。それを受けて俺も同じ体勢になって、枕元にあった コンドームの袋に手を伸ばした。その手を、高崎が制した。 「使わなくていいよ」 「え? いや、それはマズいだろ……その、アレがさ」 「大丈夫。何か越しじゃなくて、今日は直接感じてみたいの」 「…マジで大丈夫?」 「あたし、綾瀬くんには、絶対にウソつかないよ。誓ってもいい。絶対、大丈夫だから」 「…分かった」  高崎を、信じる。  高崎の想いを遂げる。高崎の想いは、俺の想いでもあるから。  迷いを捨てて、俺は高崎と繋がった――  翌朝、俺は車から降りてきた親父にぶん殴られた。乗車賃だ――親父はそう言っていた。  京都から福島までは、当然だけど、物凄い距離があって、三時間や四時間じゃあ着かなかった。 こんな道程を、仕事の終わった直後に出発して来てくれたんだと思うと、申し訳ないって気持にな る。こんな風に思ったの、いつ以来だろうな。  道中は、ずっと一つのことばかり考えていた。高崎のお父さんとお母さんに、謝ること。  僕が悪いんです。ゴメンなさい。  高崎さんと二人きりになりたくて、こんなことをしてしまいました。  お金も、僕の注意力が足りなかったから、なくなったんです。  僕は、高崎さんと付き合っています。付き合っているのなら、もっと相手のことを思って行動す るべきだったと、反省しています。  高崎さんが好きです。許してもらえないかもしれませんが、それでも、言わせて下さい。  高崎さんと、ずっと付き合っていたいです。もう二度と、御両親を心配させるようなことはしま せん。本当に勝手な言い分ですが、お願いですから、許して下さい――  今日も暑い。普段なら外に出たくないくらいに。  でも今日は、朝からウキウキが止まらない。  今日であの日から一週間経った。高崎が釈放される日だ。約束していた。一週間後の朝十時、図 書館前。  五分前行動。到着。高崎の姿はまだない。ええと、日ィ間違ってないよね? 俺。  …早く来ないかな。  …早く。  …早く。  …来た! 高崎の自転車だ。 「おおい!」  俺は大きく手を振った。高崎は俺の姿を認めると、途端に蛇行運転になった。めちゃくちゃに笑 っている。その姿を見て、心が一気に潤った。 「あはは! なんっで、急に、ボーズなの〜!?」 「殴ったのが運賃、ボーズが特急料金だってよ」 「お父さん? お父さん刈ったの、それ!? あははっ!」 「…あんまし、笑わないでくれっかな?」  また、日常が戻ってきた。俺と高崎は笑って暮らす。