穴  授業中だというのに、隆史は黒板ではなく教室の床をしげしげと見つめていた。  穴が開いている。とても小さな穴だ。  こりゃ誰も気付いてないな。気付いてるのは俺だけだろう。  隆史は何故だかニヤリとした。自分でも特にニヤついた理由がよく分かっていなかった のだが、何故だかニヤリとしたくなったのだ。  放課後の誰もいない教室に、隆史だけがいた。  隆史は一度も使ったことのない電動鉛筆削り器で鉛筆削り器童貞を脱出した。  極限まで研ぎ澄ました――。そう確信した隆史は芯先を穴に入れてみた。  入った。それも案外アッサリと。隆史は拍子抜けした。  なんだ、穴。おめぇそんな程度だったのか。  もっと小さい穴だったような気がしていたのだ。それが、案外小さくない穴で、隆史は ガッカリしたのである。  もっとこう、極限の極限の極限まで細く研がないと通らないような、そんな穴だと 思ってたのにな――。  溜息をついて、もう腹減ったしオナニーしたいし帰ろうかと、隆史は鉛筆を穴から抜こう とした。  …あれ? 抜けないぞ?  バッチリはまっちまいやがったか。  隆史は苛立って、力任せに引っ張った。しかし外れない。  ガンコな詰まりだなぁ、オイ!  隆史は童話の「おおきなカブ」を思い出しながら鉛筆を両手で引っ張った。  確かあのジーサン後ろに全体重かけて引っ張ってたよな?  やってみた。  やってみたら、「ガガンッ」と派手な音がして、教室全体が揺れた。  床が百八十度傾き、隆史は椅子や机などと一緒に巨大な穴に落ちていった。  生きてて良かった――。隆史は心からそう思った。  次の瞬間、焦燥に襲われる。  思わず声が口を突き出た。 「どこだ!?」 「ホントよ。どこ、ここ!?」  女がいる。  先にいたのか、それとも一緒に落ちてきたのか。  …先にいたんだ。あの時、教室には誰もいなかったハズだし。 「真っ暗で見えないけど……あんた、ここがどこだか知ってるか?」 「知るわけないでしょ! あたしも川岸くんと一緒に落ちてきたんだから……」 「え、どこにいたの!」 「普通にドア開けて入ってたよ! アンタがなんか引っ張ってるときさ」  そうか、集中してたんで気付かなかったんか。  バカすぎるな、俺。隆史は自分を殴りたくなった。  二人は、とりあえず歩いた。今はそれしか出来ることがなかった。 「…あんた、俺と同じクラス?」 「さあね、声に覚えがないなら違うんじゃない?」  男子の会話は常に聞き流しているが、女子の会話はスピッツの「メモリーズ・カスタム」 を聴くときと同じ位の集中力で聴いている隆史でも、この女子の声に聞き覚えはなかった。 「名前は?」 「はい? 今そんな場合? アンタ空気読めないって言われない? ねぇ」 「うっせぇなぁ……」 「話し掛けてきたの自分でしょ?」 「はいそうですねぼくがわるかったですごめんなさい」 「なにそれ、ガキ!」  ハイ、ガキですよ。まだ中一だし。だからお前もガキだろ――。  そう言いたかったが、これ以上もめて場のムードが険悪にするのは避けたかった。 なにせ、ここには隆史とツンツン女子しかいないのだから。「まあまあお二人さん」 と仲介に入ってくれる第三者など、存在すらしていない。  上手くやらねばならない。  それなのに。 「どうしよう……」 「なに?」 「今すごくおしっこがしたい」 「バカ!」 「だって生理現象だししょーがねーじゃん、遠く行っててよ」 「なんで紙おむつ持ってないの!?」 「理不尽すぎる! そこまでガキじゃねーし!」 「あーもうヤダ、マジ最悪」  海よりも深いのではないかと思われる溜息は、奇妙な質感を持って隆史の耳に残った。  そうだ、ここ、俺とこの女しかいねーじゃん。  眼もだいぶこの暗闇に慣れてきたし、身体の輪郭くらいは捉えられるようになってきた。  もういいや、どうなっても。 「じゃあ、すっから」 「耳塞いでる……」  隆史はズボンを脱いだ。  どうせもうこっから出らんねぇし。  小便をしたいのは本当だったものの、半分硬くなっていたため、尿の出が悪くなった。  そういや、もう一週間抜いてない。  勃起するわけだわ。  何とか出し終え、意識はツンツン女子の方に集中した。  身体の細い輪郭が確かに見えている。 「まだー?」 「まだー!」  まだ耳を塞いだままと判断した隆史は大声で返事をした。  にじり寄る。  にじり寄る。徐々に。  呼吸はどんどん荒くなる。気付かれるのではないか、と思われる程に。  あともう少し、というところで、ツンツン女子は耳の穴から指を放していた。 「あ、なんだケータイ使えばいいんじゃ〜ん!」  隆史は驚いた。勃起がおさまるくらいに。  驚いた理由は急に女子が声を上げたからではなく。  ケータイの液晶画面は暗闇を淡く照らし、女子の顔を浮き上がらせた。  その顔たるや――。 「川岸ィ、寝てんな!」  今時、気兼ねなく生徒の頭をグーで殴る教師が隆史の担任だった。顔は強面で赤ジャージ、 見た目は体育教師そのものだが、何故か数学教師だった。 「イ……ッてェ!」 「お前が寝てんのが悪いんだろうが。ちっとはスカッとしたろう、スカッと!」  クラスメートが隆史を見て「あ〜あ」と言いたげな顔をした。  夢。  夢だったのか。  そりゃそうだ。今は中田の数学の時間で。  それにしたって、ありゃヒドすぎる。せっかくおいしいシチュの夢見られたんだから、 もっとこう、なぁ――。  堀北真希とか宮崎あおいとか、あの辺だったら良かったのに……。  チャイムが鳴った。 「というわけで、川岸をぶん殴ったところで終わりだ。全員起立!」  隆史は起立した。極普通に起立してしまった。  下腹部に痛みを感じたのは、普通に起立してしまい、机の下の鉄で出来た部分に先端を 思い切り引っ掛けてしまったからで、またわざわざ勃起してしまったのは、夢と同じ シチュエーションで、女だけ宮崎あおいに入れ替えたからだ。  上も下も、いてぇ……隆史はうめいた。  せっかくの昼休みだというのに、弁当を食べる気にさえならなかった。机にうずくまって いると、馬鹿な友達が声を掛けてきた。 「おっまえ、数学で寝るとかねぇわ。中田の拳マジパリえねェから」 「いや、ずっと床の穴見てたら……」 「穴? どこ?」 「そこ」  と、隆史は前の机との間の床を指差した。 「え〜、どこにもね〜じゃん、穴なんて」  友達はしゃがみ込んでまで穴を探した。どうやら見つかりそうもない。  お前にゃムリだって。あれは、俺にしか見つけられねぇんだ。  そう心の中だけで言った。 「まぁいいや。で、なんか夢でも見てたん?」 「え?」  そんなん、外見で分かったのか? 夢見てるって? 「いや、なんつ〜か気持良さそうな顔してたし、エロい夢でも見てたんじゃねぇかなと」 「はははは……ソンナコトハナイヨ?」  明らかに言葉が硬かった。対面に座った友人とまともに顔を合わせられないくらいには 平静でなかった。 「でも、最後だけ顔が引きつってたな。中田にブン殴られる直前だけど」 「…白状しよう」  そこまで外見に出ていたなら、仕方がない。隆史も観念した。 「…夢に出てきた女の顔が中田だったんだよ」 「…それは、つらいわ」  隆史と友人は顔を見合わせ、口元をキュッと結んだまま、お互い深く頷いた。