雨の国 虹の橋 晴の国  この国には雨が絶えず降り続き、決して止むことがない。  そう言われてきた。親や周りの大人たちから、そう教えられてきた。  だけども、どうやら、違うらしい…… 「本当かい? 爺さん」  確かに、爺さんは言った。 「ああ、本当だとも」  目の前の爺、齢百間近。だけど、頭はしっかりしている。鼻水垂らしたガキの頃から もう十年以上、毎日話している俺には分かる。  この爺さんは、嘘などつかない。それに周りの大人たちとは、考え方が違う。 「"虹の橋"の話――」 「…あれは、まだ、オレが、お前くらいの頃だった。年端もいかない、ガキだった頃の、な」  今年で九十八になる爺は、ニヤリと笑って、顔をグッと近づけた。 「オレァ、確かに虹の橋を渡ったんだァ……」  生唾を飲み込む音が聴こえた。自分の。  心臓の音も聴こえる。 「…そ、その、橋の先には、何があったんだ?」 「…その先には……」 「…先には?」  爺は、まるで目を逸らそうとしない。俺も逸らさない。お互い、マジだ―― 「………忘れっちまったなァ」  俺はずっこけた。  マジだ――と思ったのに。 「本当に見たいと思うんなら、テメェで見ればいい。分かってるだろ?」  窓から、風が入り込んでくる。いつものように湿っぽい風だ。爺の身体に障ると思い、 俺は木の蓋を嵌めた。  …風。 「もうじき、この長雨は、止む。身体で感じているはずだ」  やはり、この爺さん、他とは違う。  だから好きだよ、爺さん。アンタは、俺に大事なことを教えてくれる。 「ああ、爺さん。風だな」  "九号さん"に、俺はまた会いに行った。  九号さんは、この国を統べる大旦那の八人目の妾だ。俺より一つ年上の十六歳。  彼女には噂がある。女にとって、不名誉な噂だ。 『アレは女として不完全だ』――そう、大人は言う。  大旦那の屋敷、庭園で、俺は九号さんと会う。  九号さんは、澄んだ目で俺を見る。少し照れる。あの目でこちらを見つめられると、何か、 自分の全てを見抜かれているような気がしてくるのだ。恥ずかしい思考の糸屑さえも、全てを。  俺は、この人を好きなのだと思う。 「…あたしの顔に、何かついていますか?」 「あァ、いや、何も……いや、何もってこたないな! 水晶みたいに綺麗な目玉と銛の先みたいに 細い鼻がついてるよ!」 「…そうですか」  照れるでもなく、怒るでもない……そんな九号さんが、相変わらず可愛らしい。  この人のことを不完全などと言う大人とは、話したくもないとさえ思う。 「そういや、知ってるかい? この雨が、もうじき止むって」 「雨が――まさか」  珍しく、九号さんの顔つきが変わる。 「そんなこと、有り得ない。だって、あたしが生まれてから今まで、一度だってこの雨が止んだ ことはないって――」 「…俺の尊敬する爺さんがこう言ってた。"この世に有り得ないなんてことはない"ってさ」  俺は、空を見上げた。今はまだ、見飽きた雨雲が空を支配している。だけど、もうじき、 この雲はどこかへいなくなる。 「風を感じてごらん、九号さん」 「風……」 「目を瞑って」  九号さんは、言われたとおりに目を瞑る。 「全身で感じて。違う感じがするだろ?」 「…いつもの風と、違う、ような、気がする……なんだか、暖かく、感じる」 「爺さんによりゃ、この風は、"晴れ"の前触れなんだそうだ」 「晴れ、って」 「雨が止んだ時のことを、そう言うんだ」  雨が止む、虹が出る、それは橋―― 「…九号さん、ここから出よう」 「え」  九号さんに、確かに、戸惑いが浮かんだ――  その日。  普段、空を見上げることなどない雨の国の人々が、一斉に空を見上げた瞬間があった。  ぶ厚い雨雲の間隙を縫って、光の束が雨の国を照らしたのだ。そして雨雲はまるで 押し退けられるように移動していく。  皆が見上げた、青があった。  齢九十八の爺は、それを見て、ニヤリと笑った。 「さァ、お前はどうする?」  虹だ。  虹だ、虹だ、虹だ!  あそこに見える。あそこに架かっている。海辺の岸から生じ、行き先は遠くに霞む。 「九号さん、大丈夫!?」 「……」  無理もない、屋敷からここまで、走りどおしだ。  でも、もう少し……もう少し、九号さん。  立ち止まる。虹の根本だ。  七色。綺麗だ。これを、虹と呼ぶのか。  これが、俺が生まれる遥か昔に、爺さんが見た物か……  手を寄せる。確かに触れられる。ならば、歩ける。 「着いたよ、ここからは、ゆっくりでいい」  俺と九号さんは、橋をゆっくりと渡り始めた。 「…加門さん」  九号さんは虹の橋の上、加門、と俺の名を呼んだ。初めてのことだ。 「ここまで連れてきて貰って、申し訳ないけれど……あたし、この橋、渡りたくない」 「…え?」 「…あたしのことどんなに酷く罵ったっていい。いたぶったっていい」 「どうして! そんなこと言ってないで、早く渡らないと……! この橋は、すぐに渡らないと、 霧みたいに消えちまう!」  ――足音が聞こえる。沢山ではない、一つ。  だがそんなことはどうでもいい。どうでも、いい。 「九号さんは九番目だろ! でも、俺なら……俺なら、九号さんを、一番最初、じゃなくて、 唯一の人に、してやれる……」  酷いことを言っていると思う。九号さんを傷つけているとも思う。 「女として不完全……だなんて、俺なら絶対に言わせない、そんなの、すぐにのしてやる!」  自分で分かる。俺は焦っている。九号さんはさっきから、俺の方を見ていない。 俺の方を向いているけど、彼女の水晶に映ってはいない。彼女は後ろしか見ていない。  足音は、止んでいた。 「…市野」  俺は彼女の本当の名を知らなかった。  皆が、彼女のことを九号と呼んでいた。無論蔑称だ。  だけど初めて会った時、彼女は自分で言った。あたしは九号―― 「それでもあたしは……」  ――ああ。  九号さんは、市野さん。  水晶のような目が、眩い輝きを放っている。それはきっと、七、八十年振りにこの国を 照らしている光の玉によるものではなく。  九号さんは八人目の妾であっても、そんなことに関係なく、大旦那を愛していて。  そして、独りでここまで追って来た大旦那もやはり、九号さんを市野さんとして愛して。  つまり俺の出る幕などなかった。 「…大旦那様を、愛しています」  最初から分かっていたんじゃないかと、自分に問い掛ける。  彼女は最初に言っていたし、何より、あの時の目の輝きは、今と同じ。  愛する人を見つめるときだけ、想うときだけ、九号さんの目は光るんだ――  俺じゃない。  そうはっきり理解して力が抜けた。虹の橋に倒れ込もうとした。  虹の下には海が見えた。  海だ、と思った。  その次の瞬間、悲鳴。  九号さんの――市野さんの悲鳴。  倒れ込もうにも倒れ込めない。答えは明白。薄弱状態だろうが、解らざるを得ない。  虹の橋は消えた……そして、俺と市野さんは、奈落の底へ真っ逆様。  ああ、こりゃあ、死ぬな…………  …………  ……………………  ………………………………死ねない。  俺は愛し合う人同士を引き離そうとした。それなのに死ねない。  市野さんが死んだら、大旦那が悲しむ。それなのに死ねない。  大旦那と永遠に会えなくなる。死んだ市野さんは憐れだ。ここで死ねない。  死ねない。死ねない。死なせない。  絶対に……死なせない!  …の。  …ちの。  頬を叩く音。切羽詰った声。 「市野!!」  水を吐く音。激しい呼吸音。生きている。  助けられた。死なせずにすんだ。笑い話だ。  死なせずにすんだ? 違う。本当は、俺独りで海に落ちれば良かった。  自分の夢を、他人にも預けた自分が愚かだっただけだ。  …また、雨が……  その後、市野さんは大旦那の子を生した。女として不完全なんて、誰も言わなくなった。  その子は女の子で、年を追うごとにあの時の"九号さん"と似てくる。  俺は市野さんのお蔭で罪に問われることもなくのうのうと暮らしを続け、年の近い三軒隣の 娘と夫婦になり、男児を一人儲けた。  爺さんは、もう大分昔に死んだ。  死ぬ数日前に、こう言った。 「オレは虹の橋を渡り切って、この国に辿り着いたんだァ」 「虹の向こう側が、ただ単純に気になっただけだった。来て、初めは、後悔したが、 そのうちに、雨が好きになってたよ」  爺さんのいた国は、決して雨の降らない"晴の国"だった。そりゃあ、周りの大人たちの 知らないことを沢山知っていたわけだ、と、静かに納得した。  ただ、一つだけ訊けなかったことがある。  爺さんは、独りで虹の橋を渡ったのだろうか――  次にいつ、青い空が現れるのかは、誰にも解らない。俺が生きている間に、また虹の橋が 架かるのかどうかも。  ただ、俺はもう、あの虹に触れることもしないだろう。  …布団の中で寝息を立てている、小さな彼は、その時どうするかな?